イギリスで花開いたアイリッシュシーン
イギリスへのアイルランド移民は、ジャガイモ飢饉の1840~1850年代と、アイルランドの経済状況が悪化した1930~1960年代と、1世紀半の間に二度に渡って大きなピークがありました。2001年の調査では、62万5,000もの人々が、自分のルーツはアイルランドにあると答えています。イギリスにおけるアイルランドの音楽は、20世紀以降、彼らのアイデンティティを象徴するものとしてイギリス国内の人々にまじめに受け取られてきました。60~70年代には、ビートルズやクイーンの大熱狂とは別の場所で盛り上がっていたイギリスでのアイリッシュシーンを早速見ていきましょう!
共通の要素が循環していたイギリス諸島の民俗音楽
イギリス諸島の伝統的な音楽は、何世紀にも渡って文化的交流と相互移住があったため、音楽の構造、楽器編成、文脈上の特徴などで共通点が多くあることが一般的に認識されています。
アイルランド人は移民や季節労働を通じて、スコットランドやシェットランド、ノーザンバランドの音楽に影響を与えてきました。
1850年代以降のロンドンでは、アイルランドの音楽家は辻楽師や雇われ音楽家として、あらゆる種類の劇場、パブなどに職業的に存在していたものと考えられています。
ゲ―ル語復興運動
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アイルランド本土に起こった文化的ナショナリズムであるゲール語復興運動は、イギリスの中流階級のアイルランド人社会に波及し、自分たちのアイデンティティの新たな重要性を感じはじめます。
民族主義団体である「ゲール語連盟」は、プロのパイプ奏者などを本国から呼び寄せてロンドンでコンサートを開き、イギリス国民にアイルランドの音楽が芸術であることをアピールしました。
そして、ロンドン在住のアイルランド人の音楽家やダンスマスターによって、スコットランドのやり方を参考にしたケーリーダンスとケーリーバンドが考案されます。この記念すべき「ゲール語連盟」主催の最初のケーリーのデモンストレーションは、1897年にロンドンの中心街にあるブルームズバリ―ホールで行われました。
大戦前後の大量移民
1930年代になると、アイルランドの農村からイギリスに渡ってくる人も多くなり、彼らの中には伝統的な音楽家が一定数混ざっていました。
アイルランド移民は、首都ロンドンを始め、工業都市であるリバプール、マンチェスター、ニューキャッスルなどで大きなアイリッシュコミュニティーを形成し、ダンスクラブやパブセッションを開催するようになります。
ロンドンでは、1940年半ば頃から、アイルランド各地からやって来た音楽家たちによって、パブセッションが定期的に開催されるようになり、ロンドンの音楽愛好家たちの目耳を集めました。
「お気に入り亭」でのパブライブ録音
北ロンドンのパブ「お気に入り亭(The Favourite)」では、定期的にセッションが行われていました。その模様はライブ録音され、1968年にアルバム「Paddy in the Smoke」が発売されます。
このアルバムは、アイルランド移民の音楽家たちの運をつかみ取ろうとする意気込みと、フォークリバイバルの中、新しい音楽を求める聴衆の熱気が感じられる記録作品として有名です。
1950~1960年にかけて、ロンドンのアイリッシュシーンを支えたフィドラーは、マイケル・ゴーマン(Michel Gorman 1895-1970)、ルーシー・ファー(Lucy Farr 1911-2003)、ジュリア・クリフォード(Julia Clifford 1914-1997)、ジミー・パワー(Jimmy Power 1918-1985)、ボビー・ケイシー(Bobby Casey 1926-2000)、マーティン・バーンズ(Mairtin Byrnes 1927-1994)といったそうそうな顔ぶれで、彼らの中には、CCÉ(アイルランド音楽家協会)のイギリス支部創設に協力した人もいます。それらの支部は、イギリス本島だけで20にもなりました。
この時期、彼らのフィドル音楽は、イギリスのレコード会社トピックによってソロアルバムが作られたり、BBCがアイルランドまで追跡取材が行われたりしました。それらはたいてい音楽研究者や「イングリッシュ民俗舞踊民謡協会(EFDSS)」といった団体と連携して行われ、民俗音楽の研究と記録が進みました。
ステージとセッション、現在の2つのアイリッシュシーン
1960~1980年代にかけて、まず、ダブリナーズやポーグスといったフォークグループが、次にチーフタンズやプランキシティといったアイリッシュバンドがイギリスでも人気を博します。
近年では、アルタン、ルナサ、フルック、また、リバーダンスやロードオブザリングなどのダンスパフォーマンスのステージ興行がイギリスで大成功し、世界のメジャーへと駆け上がっていきました。
アメリカ在住の著名なフィドラー、ケビン・バーク(Kevin Burke 1950-)はロンドンに生まれました。同じくロンドンに住んでいたボビー・ケイシー、ショーン・マクガイヤー(Sean McGuire 1927-2005)、ブレンダン・マグリンチ―(Brendan McGlinchey 1940-)などから薫陶を受けて育ちました。
ブレンダン・マルケレ(Brendan Mulkere 1947-)は、ロンドンのハンマースミスにあるアイリッシュセンターで長年フィドル教師として携わり、ジョン・カーティ(John Carty 1962-)やバンド「ロンドンラッシーズとピート・クイーン(London Lasses and Pete Queen)」などを育てました。
現在、イギリスにおけるセッションは、アイリッシュのレパートリー以外にも、他国の音楽を取り混ぜて演奏されることも多く、主催者や参加者が国際的であることが反映されているようです。
転載禁止 ©2024年更新 Tamiko
引用する場合はリンクを貼り、このページに飛ぶようにしてください。
フィドル教則本:ロンドンで活躍するピート・クーパー先生によって、ロンドン在住の音楽家やアイリッシュシーンが写真と共に生き生きと紹介されています!ぜひ、合わせてご覧ください!
動画紹介:ロンドン発のゴキゲンなアイリッシュバンド「London Lasses and Pete Queen」。アルバムは、Bandcampのサイトから購入できます(全曲視聴可)。
参考文献:「英国におけるアイルランド音楽」の項他『アイルランド音楽辞典』ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン / アイルランド国立大学ダブリン校(UCD)編集 2013年。
トップ画像:北ロンドンにあったパブ「お気に入り亭」でのワンショット。左端が長年セッションホストを務めたジミー・パワー。80年代にはセッションは終了し、彼を含む主要なミュージシャンたちも亡くなりました。その後、パブは荒れ果てた場所となり、2002年には道路建設によって取り壊されて、当時をしのぶものは今は何も残っていません。
アイルランド風ダンスパーティー、ケーリーの動画:
BBCの3分ドキュメンタリー。1950年頃のロンドンのダンスホールを40年ぶりに復活させ、青春時代のケーリーを懐かしんで踊る人たち。この時代のケーリーは1980年代以降の伝統回帰のダンスとは別物です。