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「ケルト音楽」は新ジャンルになりえたのか?

「ケルト音楽」というと、日本では、西洋の民族調の音楽をひっくるめたものという人もいれば、ロックやポップスと融合した伝統音楽の新しいジャンルという人もいるようです。音楽のジャンルの定義は厳密なものではなく、文脈によって使われ方も変わりますが、実際に、「ケルト音楽」という言葉が使われ始めたいきさつから、このテーマを探ってみたいと思います。


音楽におけるジャンルとは

ジャンルとは作品の様式上の種類のことを指します。ですから、その音楽の様式について説明できなければいけません。

例えば、アイルランドの伝統的な音楽であれば、過去から現在まで地域社会において変化しながら選択されてきたダンス音楽と歌からなる民俗音楽(参考記事:『言葉の起源からたどる民俗音楽』)から、フォークソングを除いた器楽音楽のことを指します。その音楽様式は、1960年代に音楽収集家兼作曲のショーン・オリアダ(Sean O’Riada 1931-1971)によって形作られました。


チーフタンズ

ショーン・オリアダは、フィドル、フルート、パイプ、コンサーティーナといった伝統的な楽器に、片側のみ革が張られたアイルランドの太鼓であるバウロン、さらにハープやハープシコードを加えて楽器編成を行いました。音楽の表現方法も、これまで田舎の家や野外で行われていた昔ながらの音楽やブラスバンド形式のケーリーバンドとも違った工夫がなされました。

オリアダが作った最初のグループ「キョールトリ・クーラン(Ceoltóirí Chualann) 1961年創立」を母体として、1963年に「チーフタンズ( The Chieftains)」が結成されます。こうして、新しく生まれ変わった音楽は評論家と新しい聴衆の心をとらえ、その後、数十年に渡って世界中で大成功を収めました。

「ケルト音楽」が新ジャンルなのであれば、このように、新しい音楽の様式について説明できなければいけません。


ケルティックロック

『アイルランド音楽辞典(The Encyclopaedia of Music in Ireland)2013年』によると、「ケルティックロック」という言葉の初出は、1970年、スコットランドのバンドのアルバム『Open Road』の中のトラック名においてでした。(リンクでそのアルバムに飛びます。その中から当該の「Celtic Rock」が視聴できます。)

こうした言葉が生まれた背景には、ロックがそもそも細かなサブジャンルを生みやすいこと、1960年代後半から1970年代初めにかけて、伝統音楽とロックの融合の実験が盛んに行われたことが挙げられます。

このような”ケルティックロック”なアーティストやバンドは、「ヴァン・モリソン(Van Morrison)」、「ムービングハーツ(Moving Hearts)」、「ウォーターボーイズ(The Waterboys)」などが挙げられ、音量、楽器編成、レパートリー、衣装、テーマなどにおいて、ひとつまたはそれ以上の共通の要素があったとされています。

(それぞれの音源のリンクから、当時、「ケルティックロック」なる音楽を体験してみてください!)


止まらないケルトの汎用

80年代には、「ケルティック」はドニゴール出身の歌手「エンヤ(Enya)」などのポピュラー音楽にも汎用され「儲かる音楽」の代名詞となりました。「ケルト」を冠した大規模音楽祭は成功し、国境の枠を超えたミュージシャン同士の音楽コラボが活発に行われるようになりました。

そうして「ケルト」の使用はあらゆるジャンルに広がり、その出所である民俗音楽まで遡って用いる人まで現れたり、「ケルト」を民族や音楽史に誤って結び付けられたりするようにもなりました。

「学術界ではすでに否定されているケルトの従来説を未だに広めているのは、それを生業とする音楽関係者だけ」と歴史学者が指摘するまでになっています。(参考記事:『ケルトは歴史ではなかった』)


音楽家からの疑問視する声

『アイルランド音楽辞典 2013年ダブリン大学』には「ケルト音楽」についてこうあります。

「・・・さらに最近では、ケルト音楽は儲かるポピュラー音楽に現れ、より古く、実際に生きた祖先たちの存在を薄めている。・・・ポピュラー音楽を含むあらゆるジャンルの音楽の理論家や実践家たちは、なんにでも頭に「ケルト」をつけることへの正当性に疑問を投げかけ続けている。その用語が使われた文化的いきさつを考えると、ロックであろうとその他のいかなるジャンルであろうと、「ケルト音楽」は単にアーティストの利益を懇願する符牒(印)、あるいは、聴衆の側の制限的または特殊なカテゴリーでしかない、と指摘する研究者や音楽家もいる。」

以上のように、音楽の新しいジャンルとなるのは、そう簡単なことではないようです。フォークリバイバル以降の実験的な音楽を「ケルティックロック」と呼ぶことはあっても、国や地域名で呼ばれる民俗音楽をわざわざ「ケルト音楽」に置き換えて呼ぶのは、汎用というよりは、乱用・誤用なのではないかという現地ミュージシャンの声には耳を傾けたいものです。

用語を適切に使うことは、物事を正しく理解する入り口であり、世の中に伝える上で、当たり前で、最もよい手段であることを、改めて思い起こさせます。


転載禁止 ©2024更新 Tamiko
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トップ画像:キョールトリ・クーランのバンドにアレンジを行うショーン・オリアダ。彼はヨーロッパを放浪するなど人生の前半は波乱万丈でしたが、最終的に演劇や映画の編曲に才能を発揮しました。1950年代にはアイルランド音楽を紹介するラジオ番組を持っていたことでも有名です。Credit: Copyright Peadar Ó Riada. Photo of Ceoltóirí Chualann. Link.


動画紹介:

キョールトリ・クーラン

1960年に、民俗音楽をクラシック音楽のアンサンブルにアレンジした初の試みは、「キョールトリ・クーラン」によってお披露目されました。このバンドは、子供のパレードなどに使われていた太鼓であったバウロンを初めて取り入れたり、オカロランのハープの曲を活性化したりといった、今につながる大きな功績があります。当時、誰も聴いたことがなかった新しいサウンドを体感してください。


チーフタンズ

チーフタンズの音楽は、楽器編成とそれを生かしたアレンジにさらに富んでおり、アイルランドの音楽を広く世の中に紹介しました。とりわけ、都会の若くて新しい層によくアプローチしました。ハーモニーがあって美しく、変化があって、聴きやすい音楽となるようによく工夫されていますね。この頃から、アイルランドでは、音楽の人気のジャンルだったフォークと区別して、器楽中心のバンド音楽を「伝統的な音楽」と呼ぶようになりました。こうした手法をひな形として、「 デ・ダナン(De Danann)」「 ボシー・バンド(The Bothy Band)」「 プランキシティ(Planxty)」といったバンドがその後、次々と商業的に成功しました。


参考文献:

『アイルランド音楽辞典』ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン / アイルランド国立大学ダブリン校(UCD)編集 2013年。英語です。中世から現代まで、伝統音楽を中心にさまざなジャンルの音楽まで網羅した大辞典です。信頼できる学術書として、手元に置いておきたい一冊です。


世界にまたがるチーフタンズの活動の様子、地元で楽しむ音楽のこと、バンドのこと、メンバーたちの話などが満載です。


論文

高松晃子『日本の「ケルト」受容に関する一考察 : 「エンヤ」以後の音楽を中心に』2003

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Tamiko/ フィドラー
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