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地域のフィドルスタイルについて

かつてアイルランドには、演奏方法や曲のレパートリーなどに地域のフィドルスタイルというものがあったそうです。しかし、交通・通信手段の発達やレコード、ラジオ、テレビといった新しいメディアの登場、コンペティションなどによって、1950年代頃にはすでに標準化が進んでしまっていたと言われています。アラン・ワード著『シュリーブ・ルクアの音楽』1977年は、現地を訪れ音楽家にインタビューをしたフィールドワーク史料として、高く評価されています。この著作を元に、地域のスタイルがどのようなものであるのか、一緒に見ていきましょう!


コークとケリーの郡境シュリーブ・ルクア地方のスタイルとの出会い

話は、1975年に著者が『The Star above Garter』というレコードを購入したところから始まります。そのアルバムは、ジュリア・クリフォード(Julia Clifford 1914-1997年)と兄のデニス・マーフィー(Dennis Murphy 1910-1974年)によるソロやデュオのフィドル演奏が収められており、妹兄の比類なき音楽に魅了されます。そこで、この地域のスタイルと音楽家たちのことをもっとよく知りたいと考えます。


しかし、兄のデニスはアイルランドですでに亡くなっていたため、妹のジュリアを探すことにしました。彼女は、夫のジョンとロンドンに住んでいるはずなのですが、彼らがアイリッシュシーンからしばらく遠ざかっていたためか居場所がなかなか分かりません。そしてようやく、週末のダンスホールで演奏している彼らと出会うことができます。


ロンドンのレコード会社、トピック社(Topic Records)

ジュリアの演奏スタイルは、当初から人々に広く認識されていたわけではありません。当時、彼女の演奏は、トピック社から発売された『Paddy in the Smoke』というロンドンのアイリッシュシーンを記録した有名なアルバムに1トラックあるだけで、しかも他の仲間の演奏にかき消されていました。

シュリーブ・ルクアのレコードがほとんどないこの状況を打開するために、著者はトピック社に相談を持ち掛けます。

トピック社が調査すると、遡ること1952年に、音楽収集家のシェイマス・エニスが、ジュリアとデニス、そして彼らの先生であるパードリック・オキーフ(Padraig O'Keefe 1888-1963年)の3人の演奏を現地で録音しており、それがBBCに保管されたままになっていることが分かります。トピック社は直ちにそれをレコード化し、1977年に『Kerry Fiddles』として発売しました。それがこちらのアルバム(全14トラック)です+。

 
シュリーブ・ルクアの音楽のレコードをさらにシリーズ化するために、1976年に著者はジュリアと夫ジョンと一緒に、ロンドンから彼らの故郷であるシュリーブ・ルクアへと録音の旅に出ることにしました。


地域のスタイルとは

「アイルランドの音楽」という統一されたスタイルがあると考えることが間違いであるように、「地域のスタイル」というものが意識的に伝承されてきたと考えるのは、この音楽を理解する上での落とし穴です。

一般的な話として、地域の演奏が単純なスタイルのように見える場合、他の地域よりも早い段階で調査されたことによりそう見えることを考慮しなければいけません。つまり、最近の複雑な演奏に比べて、古風な演奏が単純に見えるわけですね。また、他の地域の単純なスタイルの奏者があまり注目されなかった場合も、そう見えることになります。

地域のスタイルというものは、より長く、より多くのものがそこに共通して残っているから地域の特徴となるのであって、それはこれから述べるようにシュリーブ・ルクアの場合、フィドル奏法よりもレパートリーの方を注目すべき、ということになります。それは、ジュリアの先生オキーフよりさらに年上のトム・ビリー(Tom Billy Murphy 1879-1944年)に遡り、さらにはもっと前の世代から伝えられているポルカやスライドのレパートリーの数々です。


地域の演奏スタイルについて

シュリーブ・ルクアの演奏スタイルは、スラーを多用し、トレブルを用いず、開放弦をドローンのように使うパードリック・オキーフを典型と考えるのが妥当と考えられます。それは、彼が優れたフィドル教師として、この地で何百人もの大勢の生徒に教え、影響を与えたからです。

しかしながら、聴衆を意識した、彼の甘い音色、豊富なエアのレパートリー、リズミカルでダイナミックで洗練された演奏は、この地域で一般的というわけではありません。彼はあらゆる要素を取り入れて自身のスタイルを完成させたので、それまでの常識を覆すほど表現の幅を広げた、非常にユニークな存在だったのでした。

ジュリアはオキーフの最も優れた弟子のひとりで、洗練された甘い音色を受け継ぎましたが、ロンドンで暮らしていた40歳代後半にはトレブルを用い、開放弦のドローンを鳴らしていませんでした。しかし、アイルランドに帰省した後には、トレブルは消え、ドローンが頻繁に使用されるようになりました。さらに、彼女の演奏は50歳代後半になると装飾音が少なくなり、長い音を単調に伸ばすなど、また少し単純になりました。ジュリアが再び平凡で古風なスタイルを採用したことを示しています。

このように、演奏スタイルは、常に個性とテクニックの問題がせめぎあっており、年齢と共にプレイヤーのスタイルが変化していくことを示しています。


地域のレパートリーについて

1930年代には、ジュリアの家にも蓄音機がありました。兄たちがスライゴースタイルのマイケル・コールマンらのアメリカのレコードに夢中になり、オキーフも弟子たちのために、それらのレコードの曲を記譜し、彼自身もまたレパートリーに取り入れていました。

ジュリアはロンドンのダンスホールでは、アイルランドのより一般的な曲やアメリカのワルツ、流行のポップスなどを演奏していました。しかし、この著者のアラン・ワードのような伝統音楽の愛好者が聴きたがれば、ポルカやスライドなどを思い出して弾くようになりました。

一方でオキーフの弟子の中には、先生から教わったポルカやスライドといったシュリーブ・ルクアのレパートリーを、あとで完全に忘れてしまう人もいました。

このように、他の地域のレパートリーが流入してきたり、個人のレパートリーの内容が変わったりすることもあります。生きた伝統というのは、まず伝統ありきなのではなく、その人が何を選び取るかでレパートリーが形作られるのです。


おわりに

私たちは、ややもすると、地域のスタイルというものが存在し、それが昔から形を変えることなく伝承されてきたと考えがちです。

しかし、実際には、何をもって「地域のスタイル」と見なすか、というところにまず音楽研究者の鋭い観察眼が働いており、それをレコードにしたり、記事を出版したり、世に広める努力をした人たちがいて初めて、その姿が私たちにも捉えられるのだと分かりました。

そしてその陰には、外の誰にもつかみ切れず消えてしまった幻の「地域のスタイル」が数多くあったに違いありません。


より理解を深めたい方に→『フィドルに「流派」はあるのか?


転載禁止 ©2024年更新 Tamiko
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その後シリーズ化されたシュリーブ・ルクアのアルバム:

Music From Sliabh Luachra』Denis Murphy の珠玉のソロアルバム!
→無料ダウンロード先https://rushymountain.com/2017/06/23/denis-murphy-music-from-sliabh-luachra/


Ceol as Sliabh Luachra』Julia Cliffordと息子Billy Cliffordの素晴らしいデュオアルバム →無料ダウンロード先http://ceolalainn.breqwas.net/download/Julia%20%26%20Billy%20Clifford.zip


『The Star of Munster Trio』
1977年 全18トラック
ジュリア・クリフォード(フィドル)、夫ジョン(ピアノアコーディオン)、息子ビリー(フルート)によるファミリーバンドの演奏です。YouTube Musicなどで無料で聴けます。



『The Humours of Lisheen』
全20トラック
ジュリア・クリフォード(フィドル)、夫ジョン(ピアノアコーディオン)の夫婦の演奏です。Youtube Musicなどで無料で聴けます。



参考文献
:Alan Ward, Music From Sliabh Luachra, 1977
 
今回まとめた著作は、『フィドルが弾きたい!』の本文中にもたびたび引用されています。そして、この教則本では、パドリック・オキーフが弾いていた伝統のボウイングが学べます!ぜひ、実践編として合わせてご覧ください。


講義:

マット・クラニッチの講義。


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