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「ずっとケルトだった」~創られた歴史

アイルランドは古代からの「ケルト文化」が残っている国だから、その国の音楽は「ケルト音楽」と呼んでよい、と考えている人もいると思います。しかし、ずっと「ケルト」だったという歴史観は過去に一時期歴史として採用されていたことがありますが史実ではなく、アイルランドがイギリスから独立していく過程で創造されたもの、というお話をします。


もうひとつのナショナリズム、「ゲール語復興運動」

19世紀末から、アイルランドはイギリスからの独立を目指し、政治的にナショナリズムの渦中にありました。

さらに文化的にも脱イギリス化をおし進めていこうと、もうひとつのナショナリズムが起こります。それはゲール(ケルト)語で文芸を復興し、国民のアイデンティティをゲール的な文化として新たに構築していこう、というものでした。


ゲール文化復興運動の組織作り

1893年にアイルランド語の普及を目的とした「ゲール語連盟」が設立されます。この団体は文化行事を企画するなど幅広く活動していましたが、実質的に政治活動と結びついていました。

他に、1884年設立の伝統的なスポーツを振興する「ゲール体育協会(GAA)」、1904年設立の「アイルランド国民劇場(アビー座)」、1929年設立のアイリッシュ・ダンスを管理する「アイルランドダンス委員会(CLRG)」があり、これらの団体は今も活動しています。

こうしたナショナリズムの盛り上がりは、言語や文学だけでなく、スポーツやダンス、音楽の分野においても、「外国のもの」を排除し、より「伝統的」と思われる要素を創設したりしました。


創られた新たな「神話」

1920年代にイギリスからの独立を果たしたアイルランド自由国は、民族主義的な政権下にありました。

そうした政治的な視点に立ち、「アイルランドは古代よりゲール文化が連綿と続く国である」という歴史観が創られます。

この頃は、ヨーロッパでもどこでも民族主義に目覚めた時代でした。時代が求めたこうした民族の新しい「神話」は、当時多くの人に受け入れられました。


文化的ナショナリズムの再考

ゲール文化復興運動は、消滅の危機にあったアイルランド語を復活させるなど文化保護の功績があった一方で、排外的で過激となる傾向があり、たびたび行き過ぎることがありました。そのうちに、自国の人たちから批判されるようになります。

例えば、作家のイエイツが書いた英語劇はアイルランド語で書かれていないという理由でたびたび上演が妨害されました。同じ理由で多くの「愛国的」でない出版物が検閲を受け発禁処分を受けました。

ダンスと音楽では、カドリールを基にしたセットダンスは、「外国」のポルカやマズルカを含むとして禁じられました。当時のナショナリストにとって、こうした田舎のダンス音楽は粗野で誇れるものでないと映り、弾圧の対象となっていたのです。


偽りの歴史にノーと言った、アイルランドの知識人

1940年代前後から、こうしたナショナリスト史観に疑問を投げかける本が自国から出されます。オフェイロン(橋本槇矩訳)『アイルランド 歴史と風土』岩波文庫 1997年です。

そこに書かれた内容とは、「アイルランドは連綿と続くケルトの歴史などではなく、古くから文明の異種同化の歴史である。イギリスの隷属の歴史にのみ焦点を置くのではなく、ヨーロッパとの交流の歴史に目を向けるべき。孤立した民族主義をやめて近代化を進め、再びヨーロッパの仲間入りをしていこう。」というものでした。

この時期から、論争もありながらも、学術世界での史料や科学に基づく歴史へと軌道修正されていきました。(歴史研究については、別記事「『ケルト』は歴史ではなかった」または「文献紹介(その3)~一般向けの最新版アイルランド通史はこの一冊」をご一読ください。)


ネットの真偽は自分で確かめよう

アイルランドの知識人たちが、アイデンティティや歴史を国が創作することに疑問を投げかけたのは70年も前のことです。

それなのに、21世紀の日本において、世界大戦前の時代の古い歴史観を蘇らせれて、それを歴史として広める人がいるのはなぜでしょうか。

現代に生きる私たちは、情報の多くをネットに頼っていますが、検索の上位にヒットするものが正確な情報とは限りません。論文などより確かな資料に当たればそうではないことが分かるひとつの事例だと思います。


転載禁止 ©2023年更新 Tamiko
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トップ画像:「ゲール語連盟」の広告。ローマ風の装束に身を包んだ輝かしいエール(しばしば女性に喩えられるアイルランド)か、裸足のみすぼらしいなりのイギリス風か、あなたはどちら側かと問いかけている。Poster promoting a language collection for the Gaelic League in 1913. National Library of Ireland, EPH G11


参考文献

オフェイロン(橋本槇矩訳)『アイルランド 歴史と風土』岩波文庫 1997年

勝田 俊輔『「共同体の記憶」と「修正主義の歴史学」 : 新しいアイルランド史像の構築に向けて』論文 1998 年https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/107/9/107_KJ00003648539/_article/-char/ja/

田中美穂 『アイルランド人の起源をめぐる諸研究と「ケルト」問題 』2014年 紀要:http://onct.oita-ct.ac.jp/library/public/kiyo-51_pdf/No51_kiyo_1.pdf

ブレンダン・ブラナック(竹下英二訳)『アイルランドの民俗音楽とダンス』
全音楽譜出版社 1985年

山本正『アイルランドの歴史』河出書房新社 2017年

山本正『「王国」と「植民地」 近世イギリス帝国のなかのアイルランド』
思文閣出版 2002年

海老島均・山下恵理子編『アイルランドを知るための70章 第2版』明石書店 2011年

Pete Cooper. Complete Irish Fiddle Player. Mel Bay. 1995.

Francis O’Neill. The Dance Music of Ireland. Waltons (1907).






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Tamiko/ フィドラー
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