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クラシカロイド~史実のベートーヴェン(1)

ベートーヴェン生誕250年クラシカロイド再放送記念の放送される
「闇、その向こう」のムジーク曲

ヴァイオリン協奏曲9番「クロイツェル」Op.47

作曲されたと思われる前後の住居と彼の歴史をお話したいかと思います。

なお、コロナ禍で渡墺することができませんので、文末にGooglemapを添付しております。
衛星写真やGoogleEarth等、家の周り等を堪能していただけると幸いです。
(タイトル写真はアン・デア・ウィーン劇場のそばにあるナッシュマルクト。その中にあるオリーブなどの食材を売っているお店の写真)

*作曲された前年にあった事件
*作曲された年の話
*作曲後の話


*作曲された前年にあった事件

このヴァイオリン協奏曲9番「クロイツェル」が発表された1803年の前年1802年10月、ベートーヴェンは遺書を書いた。あのかの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた。1801年友人宛に聴力が回復できなかった事と「魅惑的な少女」ジュリエッタ・グイチャルディとの恋愛ついて書かれていた。彼女との恋愛は両想いであったのが身分が高い彼女とは結婚できず破局。のちにピアノソナタ「月光」を献呈した相手でもある。
1802年5月、静養のため遺書の家に移る。当時は温泉が湧き出た保養地だったが、1875年頃に行われたドナウ川の河川工事により温泉が枯渇し、今はホイリゲ(ワイン酒場)が有名な街になった。

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写真:ハイリゲンシュタットのベートーヴェン博物館(遺書の家)

この頃のベートーヴェンは、難聴であることを隠すため大声でしゃべり、他人との意思疎通も上手く立ち回る事も出来ず、変人とも捉えらるような行動を起こしていた。
「何も聞こえぬ」と言って史実のベートーヴェンが街の中を彷徨う姿はここからきているのではないかと思われます。
絶望の淵に立たされたベートーヴェンは、10月6日遺書を書き始めた。これが「ハイリゲンシュタットの遺書」と言われる遺書である。その遺書には弟「ヨハン」の名前が空白になっており、兄弟としてあまり良い関係ではなかったようです。遺書を書いた数週間後、彼はウィーン中心部の住居へ移った。

*作曲された年の話

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写真:聖ペーター教会
(この右手側奥にベートーヴェンの家があった。左手側奥にはモーツァルトの住居がある)

ウィーン中心部にある聖ペーター教会の近く、Petersplatz11に移ったベートーヴェン。この頃に弟のカスパル・カールを秘書にし、難聴と共に生きていく事を決めたと言われている。
そんな中、1803年イギリスから「エラール」のピアノが送られてきた。
(ハイドンやヴェルディ、リスト、ラヴェルが所有し、ショパンが気分が優れない時に使っていたと言われている名門ピアノメーカー)
このピアノは、今までにない音域を持っていた。このピアノを所有していた時期には、このクロイツェルソナタの他に交響曲3番英雄など輝かしい傑作が生まれた時期に当たります。当時の建物でどうやってピアノを運び入れたのかとても気になるところ…です。
アニメではギターにこだわる場面でしたが、史実のベートーヴェンは音域の異なるピアノを作らせたり提供されたり、僅かな聴力を活かすためにピアノに改良を施したりと色々と工夫していたようです
(所有していたピアノの中には、鍵盤のふたにベートーヴェンの歯型が残っているものもあります)

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クロイツェルソナタを発表したのは5月24日アウガルデンにて発表。その頃には上の写真の建物に引っ越します。
ここは、アン・デア・ウィーン劇場。あのモーツァルトの魔笛に関わったシカネーダーが作り劇場監督をやっていた劇場。1803年、シカネーダーはベートーヴェンと契約。劇場内の住居を提供した。この年から翌年にかけ、クロイツェルソナタの他、ピアノソナタ「ワルトシュタイン」などが生み出された時期に当たります。

*作曲後の話

5月にクロイツェルソナタの初演し、夏にはバーデンに訪問。その後、デープリングにあるこの家に滞在する。
のちに「エロイカハウス」と呼ばれる住居。

この家であの交響曲第3番「英雄」が生まれました。
(翌年の12月ロブコヴィツ邸にて初演奏(非公開)1805年4月7日アン・デア・ウィーン劇場にて演奏されました(公開演奏初))

この家で6月から書き始めた曲があったのですが12月で断念し、入れ替わりに来たのがあのレオノーレの原作本でした。

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現在このエロイカハウスは予約制の博物館となっております。
翌年の1804年2月、劇場が買収され劇場監督であったシカネーダーが降板。ゾンライトナーが就任し、4月に契約無効にされ、住居であったアン・デア・ウィーン劇場を出ざる得なくなり、ブロイニングが住んでいた家(Garnisongasse 9ー11)に転居(下記の写真)入居してすぐ彼と意見が合わなくなり、2か月ほどでバーデンへ行ってしまう。のちに不和は解消されたが、一時期ウィーンを離れパリに移住することも考えていた。

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それでもウィーンに留まったベートーヴェン。
その理由が5年前ピアノの教え子であったヨゼフィーネ・ブルンスヴィックにあった。

彼女は5年前ベートーヴェンにピアノを教えてもらい、ベートーヴェンに夢中になった。彼女の家が同等クラスの貴族であり裕福な婿が必要であったため、彼女は30歳年上の伯爵の元へと嫁いだ。
とても幸せに暮らしていたのだが、その夫をこの年の1月に亡くし、四人の子供を抱えウィーンに帰ってきた。
ベートーヴェンは足しげく彼女の元へ通い、手紙を送っていた。
3年後、関係をよく思わなかった親族の圧力により、彼女はベートーヴェンの前から姿を消した。

ヨゼフィーネはのちに、テプリツェでしたためられたベートーヴェンの手紙「不滅の恋人」の有力者の一人と言われている。

*今回の場所*
・ベートーヴェン博物館(遺書の家 1802年5月~10月頃の住まい)
・エロイカハウス(1803年04年、夏の住まい)
・アウガルデン(クロイツェルソナタの初演の地)
・ブロイニングの住まい(1804年5~6月の住まい)
・聖ペーター教会(1802年10月~03年4月頃の住まい)
・アン・デア・ウィーン劇場(1803年4月~1804年5月頃の住まい)
(順序不同)

写真は全て私個人が撮ったものです。無断転載等禁止致します。

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