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『口訳古事記』にお礼が言いたい

 町田康氏の新作『口訳古事記』の感想が書きたいのですが、うまく書ける自信がありません。なぜなら僕に学がないからです。
 日本最古の文書であるところの『古事記』、その現代語訳について何事か書くとなれば、『古事記』について何事か知っていなければならないのは、当然です。
 ところが僕は『古事記』のことが、全然判らないのです。
 本は何種類か持っていて、何度か読んだこともあるのですが、何が書いてあるのか、理解できたと思えたことは一度もありません。
 我ながら情けないと思うのですが、僕にとって『古事記』というのは、読むたびにアタマがおかしくなりそうになる書物です。大昔の和漢混交文にて意味不明、という根本的な問題は、もう克服を断念しました。読み下し文や現代語訳を頼りに読むしかありません。
 しかし、何が書いてあるのか理解できたらできたで、これはいったい何事ですか。泣けば涙から神が生まれ、垢を落とせば垢から神、出血すれば血から神。神の畑に脱糞するかと思えばヤマタノオロチを退治して英雄になるスサノオノミコト。そのスサノオにいびり倒される大国主命。それに続くシッチャカメッチャカと、暴力による全国制圧。
 行動原理も判らない、時間経過も判らない、神々のネーミングセンスも判らない、何がなんだか、突拍子もないエピソードが文庫本の本文僅々二百頁にぎゅうぎゅうづめ。それが『古事記』なのです。こういっちゃあナンですが、原始人が作ったドタバタ喜劇のような印象がずっとありました。
『口訳古事記』を読んで、その印象は必ずしも間違っていなかったのだ、と意を強くすることができました。

――天照大神(あまてらすおおかみ)は、その響きにびっくりなすって、
「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっと私の国を奪い取ろうと思って出て来たに相違ない」
 こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いで髪をといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方の腕とに、八尺の曲玉(やさかのまがたま)というりっぱな玉の飾りをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をお負いになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足を踏みならして待ちかまえていらっしゃいました。

 スサノオが来る場面が、鈴木三重吉の『古事記物語』ではこんな風に書かれています。原典に忠実であると同時に、神々の権威を損ねないよう、配慮が行き届いている文章です。
 同じ場面が『口訳古事記』では、

 ――そう思った天照大御神は部下に言った。
「日頃の言動から考えて吾の弟が友好目的で来るということはまずない。侵略意図を持っているのは明白です」
「マジですか」
「マジです」
「ど、どうしましょう」
「吾自身が武装して戦います」(中略)
 ということで天照大御神は、長い髪を解いて、御みずら、すなわち両サイドで巻いてポンポンにして留めた。そして左右の手に極度に長い紐に通した玉飾り、超強力なパワーストーンを巻きつけた。鎧を身に纏い、その背中には矢を入れるためのケースを背負った。ちなみにこのケースには約千本の矢が入った。さらには鎧の胸のところにも矢を入れるためのケースを装着、このケースは五百本の矢を入れた。左手首にはいかついリストバンドを嵌めている。
 すなわち、天照大御神はフルアーマーの状態で須佐之男命を待ち受けたのである。(48~49頁)

 現代的なわかりやすさと会話を重視した、軽みのある文章です。ちなみにこの場面は、この直後の天照大御神のアクションが凄まじく面白いのですが、そこは定価でお買い求めになって皆さんお楽しみください。
 全編くまなくというわけではありませんが、この作品で神々は関西の言葉で喋りまくっています。これがまた小気味いい上方落語の調子でして、見台と張り扇が目に浮かぶようです。

――「誰や思たら日子国夫玖やないかい。ようも儂を餓鬼呼ばわりしてくれたのお。そやけどええ根性しとるやないかい。なんやねん。今日はなんの用やねん」
「おお、建波邇ちゃん、元気そやなあ。今日はなあ、おまはんに頼みがあって来たんや」
「おおそうか。一応、聞いたら。頼みてなんや」
「すまんけどなあ、死んでくれ」
「じゃかあっしゃ。おまえが死ね、ド阿呆」(243頁)

 こんな調子です。関西弁(といっても広いですが、関西のどのあたりの言葉かは関東人の僕には判りません)であること、会話の内容が『仁義なき戦い』(あれは広島ですが)みたいであることには、なんの違和感もありません。日本の中心はもちろん関西にあったのだし、神々が「日本統一」のために戦争に明け暮れたことは周知の事実です。ここから倫理とか武道などのできあがるまで、千年くらいはあるのでしょう。
 だからこの作品が終始上方風であるのはいいのですが、些細な一か所だけ、倭建命のところに出てくる「相模国の御奴」までが関西弁なのは、関東人として「そうなの?」と思いました。

――「いえ、黙ってぇしまへん。何回も払てくれて言いに行きました。けどあきまへん。じゃかあっしゃ、ちゅてぼこぼこにされてあべこべに身ぐるみ剥がれるてな始末で、それからもう怖おーてよう行きまへんねん」(320頁)

 相模国の御奴なんだから相模の言葉で喋ってほしいところだよなあ、と思いながら読みまして、その小さな部分がこれを読了する頃には、大きな発奮となって僕の中にメラメラ燃えるものを生んだのです。

 僕は昨年の秋以来、平将門について書きたいと思っていて、昔の本を読んだり北関東をうろついたりしているのですが、いかんせんそれまで平将門がどこの誰かも知らなかったものですから(三大怨霊の一人としか思っていなかった)、なかなか書けずにいました。面倒臭いから書くのやめようかな、と思いかけていました。
 しかしこの『口訳古事記』を読んで、僕は俄然勇気を得たのです。この本の巻末には参考文献が小学館の『新編日本古典文学全集1 古事記』しか挙げられていませんが、たとえこれが本当だとしても、町田康氏はその一冊をズダボロのふにゃふにゃになるまで読みこんだに違いありません。その上でのこの軽みと上方落語のリズムです。こうでなきゃいかん! ここまでやらねえとダメなんだ! 僕は恥ずかしくなり、かつ自分の「坂東」を書く意思を強くしました。

 古事記のシッチャカメッチャカを明示してくれたこと、そして僕の気持ちを奮い立たせてくれたこと。『口訳古事記』と町田康氏には、深い心からの感謝をささげたいと思います。

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