「売りたい」文学論
11月4日(月)
私家版『世界でいちばん美しい』の見本が今週中に届く予定。来週には納品される予定。
こう書くだけで心拍数がちょっと上がる。
ありがたいことに、このままトラブルなく進めば、予約の売り上げで印刷代は賄われている。配送料や雑費とまではいかないが、経費のほとんどがすでに回収できる見込みだ。
でも恐い。ひどい本ができてきたらどうしよう。全部泥だらけで届いたらどうしよう。予約がいっせいにキャンセルになったらどうしよう。とんでもなく大きな見落としがあったらどうしよう。・・・かなり突飛な空想まで浮かんできて、怖いのである。
考えてみれば今まで本を出してきて、こんな不安を感じることはなかった。それらはすべて「僕の不安」ではなかったからだ。印刷や校正、製本や配送、顧客対応や売り上げの管理といったことは、すべて「出版社の不安」であって、著者はそういった部分に問題が発生しても、関わらなくて済むのである。ひどい言い方になるけれど、印刷に問題があれば1000部であろうと我関せず、出版社が印刷所と折衝して解決する問題で、こっちは当たり前に1000部の印税を受け取るだけである。
私家版を出せばそうはいかない。できあがった本に問題があるのは印刷所の責任か、それとも発注者の不注意か。発送時に本が汚れたのか、それとも梱包時点で間違えたのか。支払いは。個数の確認は。
トラブルはいつでも、どこでも、起こりうる。
僕はサラリーマン時代に、同人コミックの通信販売部にいたことがある。当時はまだまだ電話での受注が主だった。商品点数も多かったし、発送方法も何種類かあったし、クレームもよく来た。
あの経験が今の僕を少し楽にしてくれている。あれに比べれば、今のところ商品は一種類だけだし、発送先も多くない。丁寧にやればトラブルも回避できるだろう。
一方でやはり、たくさん売りたいという気持ちもある。絶版になって出版社は売ってくれなくなった小説はまだまだたくさんあるから、どんどん作ってどんどん売りたい。
必ずしもそれは、銭金だけが目的ではない。自分の作ったものが売り物でないというのは、極端な言い方かもしれないが、生きたまま埋葬されているようなものだ。
それは同時に、「作ったその時にしか人に読まれないようなものを、僕は書かなかった」という自負でもある。それは僕が小説を書く時の、最低限の矜持だ。僕の小説は、常に発見されたがっている。たとえその発見の結果、否定的にしか捉えられなかったとしてもだ。
「発売時に売れなかったということは、きっと駄作だろう」と、読まれもせず判断されることほど、恐ろしいことはない。売れた・売れなかったというのは、作品に対する判断ではない。にもかかわらず売れなかったものは、実にしばしば相手にされない。そして「相手にされない」とは結局、駄作の烙印を押されてしまうのと、実質的に同じことである。
「私は読んでないけど、きっと傑作なんでしょうね」というのと、
「私が読んでいないのは、読まなくてもいいということでしょうね」というのは、まったく同じことだ。
僕は何度か書いたり喋ったりしている。ウラジミール・ナボコフのことを。
ナボコフが20世紀有数の文学者であることは疑いをいれない。『アーダ』や『賜物』、個人的に愛してやまない『青白い炎』といった諸作は、常に読者を刺激し、混乱させ、文学の多様性と世界への広がりを読者に与える。
けれども僕はそういった凄まじい作品群を、決して読むことはなかっただろう、もし『ロリータ』というヒット作がなかったら。ナボコフの難解で長大な作品が僕に届いたのは、彼が『ロリータ』というスキャンダラスな作品を書いたという事実が、僕の耳にまで届いたからである。
もし『ロリータ』がただの文芸臭ただようポルノ小説にすぎなかったら、僕はほかの作品は読まなかった。でもそんなシロモノではなかった。だからほかの作品を読んだ。そしていちいち衝撃を受けたのだ。
ただ売れるだけではいけない。売れたか・売れなかったかというのは、芸術の判断基準にはならない。しかしひとつとして相手にされないまま埋もれていったら、それは存在しないも同然である。
没後に認められた作家は少なくない、という人もいるだろう。しかしそういった不遇の作家は、まず例外なく圧倒的な、文学全体を押し広げてしまうくらいの才能であり(カフカ、宮沢賢治、デイヴィッド・リンゼイ)、しかも実際は決して多くない。ほとんどの場合、語るに値すると認められる作家は、生前すでに充分認められた作家たちの中から、さらにフルイにかけられて残るのである。
しかしもちろん、今の僕の実験は到底そこまでいかない。売れるというほど個人で売ることはできないし、ナボコフだカフカだと、偉人と自分を比べるのも滑稽だ。
ただそのはるか前の段階として、せめて生き埋めにはされたくない。そのために動いている。生きたまま埋葬されるのは、自分で防ぐことができるのだから。