キャシャーンsins 感想

フーコーが悪魔憑きとともに語った肉の痙攣という概念は不気味だが、ああ、たしかにその通りだ。
最後にあるのは私という肉の塊だ、最初にあるのは私という肉の塊だ。
私は無人格の有機物とし生じ腐敗し無機質に回帰する。
だが、死は母胎への回帰ではない、生命としてもっと根源的な原初への回帰だ。
無機物が生命として振る舞い始めたその瞬間という無への回帰だ。
不可避の運命が設定されているとして、それは救いだろうか?呪いだろうか?
生命という存在が持つコードが産めよ増やせよ地に満ちよだったとして、それは、無から生じたコードで原初の意味から逸脱したコードだ。
私達は生を望むように設計されながらその裏に死を内在されているのではないだろうか?
無から生じたものが無を無化、出来るのだろうか?やはり、最後に無は不可避の運命としてそこにあるのではないか?
キリストは生を望み、仏陀は死を望む。

生とは変質の過程であって、そこには変わりゆくなかで変わらずとどまり続けようとするなにかがある。
死でも無でも空でもない、なにかがある。
実存の痛みに触れられないキャシャーンがそこのことを誰よりも深く感じるのには切ないものがある。
痛みのない永久の平安に生を見るのではない。
変わりゆく流れの中、傷付き、痛みを抱えながらも、それでもなお存在し続けようとする意志に生を見るんだ。
私達は常に、終局としての無に向かって進んでいる。
エントロピーの増大を食い止めることなど出来はしない。
でも、私はこの一瞬に私を繋ぎ止めておきたいと願う、訳も分からずに願うんだ。
死は生と不可分なのだろうと思う。
わからないけれど。
この恐怖も痛みも敗北も、死も、それは切り離すことの出来ない私という生だ。
多くの宗教が謳うようにこの生を手放したいとは思わない。
救いはいらない。




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