自分自身を「隠す」ということ。
私は幼少の頃から、家族や友人に対して、自分自身を「隠す」ということをあまりしたことかない。いつでも誰に対してもオープンだったし、泣きたいときは泣く、怒るときは怒る、笑いたいときは笑う、素直な子供だったと思う。
大人になった今でもそうだ。
母や会社の人、パートナー、友人にも計算高い態度は取らない。いつでも素直に対応する。パートナーからは、「君の一番好きなところは明るいところだ」と言われている。
しかし私は、時折考える。
あまり素直すぎるのは罪なのかも知れないと。
人間どこかに、計算高さや、人とのコミュニケーションにおける推理力や洞察力がないと、私は人間関係で壁にぶち当たったときに潰れてしまうのではないかと。
実際、私も経験者だが、精神疾患を寛解させるために通う先の職業訓練センターやデイケアなどで出会う人たちは、殆どが真面目で純粋で優しい。「陰」(悪い意味での)というものがない。私も嘗て、前職の職場の先輩に「君には翳りがない」と言われたことがある。
そう。
私には翳りがない。しかしそれが時として私自身を苦しめることになることもある。そうならないためにも、人とコミュニケーションをとるときは、
相手をよく見定めて、「この人には、ここまでは話せるが、あとは話さない」など思考の中で境界線を作るべきだ。自分を「隠す」ということは寧ろ外部から自分を守るための戦略だ。
自然界に生きる様々な生物たちは、敵から身を守るために体内に色々な武器を持っている。臭い屁を放つスカンクや、黒い墨を出すタコやいか、体の毛を固く逆立てるハリネズミ、敵が近づくと異音を放つコウモリや。人間だけが、武器を持たない。その代わりにものを論理的に考える頭脳を持つ。その頭脳で、今の現代は人とコミュニケーションする際にその頭脳で巧みに考えながら、図るのだ。
しかし、この頭脳という私たち人間の武器は、時折残酷なことも考え出してしまう。殺人や、破壊、戦争。これは我々人類が考えてきた最大のエゴだ。
私たちは本当は、そのような過去の過ちを常に意識し、生きていかなければならない。
自分を「隠す」という話に戻ろう。
それは、言い方を変えれば、それだけ自分を大切にするということだ。令和も3年に突入し、新しい時代がどんどんやってくる。そのなかで、私たちはどれだけ自身を大切に生きていけるのかどうかだ。
時代や人に、流されることなく。