檸檬のスト缶
その日私はいつになくそのファミマで買物をした。というのはそのファミマには珍しいスト缶が出ていたのだ。スト缶などごくありふれている。が、その店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえのファミマに過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあのスト缶が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、テキーラのショット3.75杯分のアルコールも。――結局私はその500mlのロングのスト缶を一本だけ買うことにした。
それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がスト缶を握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一本で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。
それにしてもスト缶というやつはなんという不可思議なやつだろう。 そのスト缶の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肝臓を悪くしていていつも朝起きるとき頭が痛かった。事実その頃は毎日スト缶を4~5本飲まないと寝られない日が続いていた。
私はプルトップを開け、何度も何度もそのスト缶を口に持っていって飲んでみた。またそのどぎついアルコール臭を嗅いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。そしてゴクゴクと口いっぱいに匂やかな液体を飲み込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。…… 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を歩した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量ったり、またこんなことを思ったり、 ――つまりはこの重さなんだな。―― その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは関大の正門前だった。平常あんなに避けていた関西大学がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。 「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。凛風館の書店にも学食にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。
私は図書館に入館するために学生証をかざし、二階の法学の棚の前へ行ってみた。井田良の講義刑法学各論の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったペトラルカの詩集までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。 以前にはあんなに私をひきつけた本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中のスト缶を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度このスト缶で試してみたら。「そうだ」 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐るスト缶を据えつけた。そしてそれは上出来だった。 見わたすと、そのスト缶の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい関大図書館の中の空気が、そのスト缶の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。 ――スト缶をそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。―― 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。図書館の棚へ銀色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの関大が図書館を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな関大も粉葉みじんだろう」 そして私は飲食店の看板が奇体な趣きで街を彩っている関大前を下って行った。