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浪費と消費

これは私が「暇と退屈の倫理学」という本を読んでから行動変容に繋がるほど影響を受けた考え方

浪費と消費の違いについて考えてみてほしい。
辞書からの引用だと各々こうなる。

浪費(ろうひ):金銭・物・精力などをむだに使うこと。むだづかい。

消費(しょうひ):金・物・労力などを使ってなくすこと。

なんとなく浪費の方が悪いイメージ。
暇と退屈の倫理学を読むまではそう思っていた。

しかし、本書で述べているこの2つの言葉の捉え方は以下だった。


浪費と消費の違いというのは、浪費は物を過剰に受け取ることだから満足が来てどこかで止まるけれど、消費は情報を受け取っているだけの記号ゲームだからいつまでも止まらない、というものです。
これを目的という言葉で言い換えると、浪費には特に目的はないということになる。そのものを楽しんでいるだけですから。
ところが消費には目的があるのではないか。例えばグルメブームでいろんな店に行って自撮りしてインスタに上げたりするといった目的です。行為それ自体を楽しむのではなくて、「いいね」を稼ぐとか個性を磨くとか、何かの目的のために行なわれる。

辞書の意味と本書で述べられている解釈は一見違うように感じられるが、通ずるものだということがわかる。

そしてこの考え方は消費社会に生きる私たちの根本的な真理だということも理解できる。

浪費は辞書でも述べられている通り「無駄遣い」だ。
人は浪費するときに「無駄だと分かって選択している」ということになる。
”特に目的もなく無駄だと分かって選択している状態”
いわば「贅沢」。

例えば食を浪費するにしても、胃袋には限界がある。
「これ以上食べれない」という物理的限界に達し、そこで満足を得る。

「浪費とは必要以上に“物”を受け取ること」とはこういうこと。

一方消費には「目的」があると述べていた。
目的の有無が消費と浪費の決定的な違い。

本書では消費行動は”満たされない”という点で問題だといっている。
なぜ”満たされない”のだろうか。
以下は本書の引用。

浪費はどこかでストップするのだった。物の受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
 なぜか?
 消費の対象が物ではないからである。
 人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。

「みんなが持っているから買わねばならない」「余暇を楽しんでいることを証明するために旅行へ行かねばならない」「このブランドの商品はこんなに良いものなので手に入れなきゃ損」・・・資本(広告)はそんな相対的価値観を煽り続け、退屈な僕らはそんな「概念」を獲得するために必死になる。御存知の通り、資本は常に新しい商品を提供し続けるわけで、この構造には終わりがない。資本家が消費者に受け取ってもらいたいのは、商品それ自体ではなく、そこに付随する希少価値という「概念」なのだ。

つまりは欲しいと思ったものは社会から煽られてそう思わされているし、
欲しいと思ったものを手に入れても次々に新しい商品を生み出される今の社会では満たされることがないという話。

これが消費行動が問題である理由だ。

ここからは私の解釈になるが、
消費行動の問題点は他にも、その目的の大部分が”承認欲求を満たすため”という部分にあるのではないかと思った。

例に挙げられている「SNSに載せる為という目的」はもはや今の若者を覆う病理にまでなっている。

SNSに載せる為という目的の根源はやはり承認欲求だと思う。

承認欲求を満たすための行動行為自体は悪ではない。
ただ、承認欲求を満たすために「概念の獲得に必死になること」が間違っている。

SNSの台頭で承認欲求は天井知らずのものとなっている。
獲得してもしきれない概念と同じで承認欲求も
また、満たしても満たしても満たされないのである。

満たすことのできない承認欲求を満たすために、
獲得しきれない概念を獲得しようと必死になっている。

私達はただ金や時間や労力を使って、なくしていっているのだ。


私はこの気づきを得た時に、
自分の洋服に対する欲求を顧みた。

私が洋服を買う目的は「お洒落な人と思われたい」という承認欲求を満たすためだった。
欲求を満たすためにたくさんの洋服を買い漁り、まさに”消費”していた。

この消費行動が止まったのは、お洒落な人と思われたい承認欲求を満たしきったからではなく、
承認欲求そのものを自分で満たす術を身に付けたからである。

自己肯定感が高まり、誰かに承認されずとも自尊心を保てるようになったとき洋服を着る目的が「お洒落な人と思われたい」という目的のためではなく、自己表現というエゴになった。

そして、洋服を買うという行為が消費から浪費になった。

消費行動と承認欲求が密接な関係であることがわかる。

だけど、本書は暇と退屈について哲学しており、
「消費ではなく浪費こそがあるべき退屈のやり過ごし方だ」と結んでいる。

この一文が結論のすべてではないが、暇と退屈の倫理学という本を読んで、
「自分が欲しいと思っているものは本当に”自分”が欲しいと思っているものなのか、欲しいと思わされているものではないか」を考えるようになったのは事実である。

おかげで私はイオンに行っても15分で用事を済ませられるようになった。
すごい。

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