雑記 ムカデとカエル、少数と多数
私はおそらくモード系に属する服を好んできている。ただそれを「好き」というには知識や思い入れが足りない気がするので、傾向として好んでいるという表現を使う。あるとき同期に「白井の服は個性的だが地雷系ではないので好感がもてる」と言われた。どつくぞ、と思ったが何を根拠にどつけばいいのか分からなかったのでそのときは溜飲を下げた。そのときの「根拠」について考えたい。
なぜ服装にこだわりがあるでもない私があのとき怒りを覚えたか。まさにこだわりなく「普通」だと私が思っているものに外野から意味づけをされたことが不快だったのだ。私は他者に好感をもたれるために服を選んでいないし、その好感の軸に反逆するために服を選んでもいない。ただ、私が好ましい在り方をしているだけなのだ。普通でいるだけなのだ。
多数に受け入れられなくとも好きな服装をしていたい。勿論そのとおりだ。しかし私がそうした服装をするのはその多数に抵抗するためではない。目的が逆だ。着るために抵抗することはあれ、抵抗のために着ることは望んでいない。私にとっての好ましさはそれ以上の政治的な意味を持たない。
ある人にとっての普通な在り方に他者が評価をくだすことは、それまでその人にとって普通であったことを奪ってしまうことをも意味する。その評価が為された時点から外的な意味づけがなされそれを意識することを余儀なくされてしまう。その人にとっての普通ではなくなってしまう。あたり前のことだ。しかしおそらく奪ってしまう側の人間にはあたり前には起こらないことなのだろう。だからやってしまう。
今後、地雷系に属す服を着たくなればそうするだろうと思う。しかし、今の私がそれを着ようと考えるとき、必然としてあの同期の言葉が浮かぶことになる。その限りでは「普通」には地雷系のファッションを楽しめないだろう。着る時点で私自身のなかに抵抗や反逆の意味合いがうまれてしまうためだ。無論あれから今に至るまでの私の服の選択も「普通」にはできていない気がする。
踊りの上手なムカデがいた。それを面白く思わないヒキガエルがいた。そこでカエルはムカデにむけてこんな手紙を書いた。「あなたのダンスは素晴らしい。そこで教えてもらいたい。何番目の足を何番目に動かせばいいのかを。」それまで自然に踊れていたムカデはそのことを考えてから踊れなくなってしまった。エンデの本で読んだ寓話だ。
よろしくお願いします。