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ラダックと豊かさ
週末に私の恩師が開催する長野県の別所温泉合宿に参加していた。
ゆるーく組まれたプログラムの一つに映画を観るというものがあった。
その映画はインド北部ラダックでの日常を描いた作品だ。
この映画の監督の野村さんも合宿に一緒に参加していた。
監督が映画を上映し、視聴者である私たちは観賞後直接監督に質問ができるという贅沢な機会だった。
ラダックはよく社会問題にフォーカスした映画の舞台として取り上げられる。
しかし今回の作品は監督がラダックの家庭にホームステイをして一緒に過ごす様子を写すという本当に何気ない日常を描いたほのぼのとしたものである。
撮影は2017年
ラダックは標高3500mとかなり高地。
点在するように村があるため外に働きにでる人は少数、彼らは村の中で自給自足の生活を送る。
主食は大麦で収穫時期には家族みんなで収穫をする。
収穫のためのトレーラーなどは存在せず、脱穀もヤギが麦の上を歩き回ることで行う。
そんな生活の中にもスマホは存在する。
どうやらコロナウイルスの影響で学校が閉鎖され子どもたちにタブレットが配布されたところから少しづつ普及してきたらしい。
参加者の中の1人が視聴後にこう質問した。
「スマホでこれまで見ていた世界と全く異なる
他の世界が見えるようになった。
これは他の世界の生活と自分たちの生活を
比較することにもつながり、自分たちの貧しさ
が相対化して映ることもあると思うのだが、
それについてラダックの人々は
どう思っているのか」
と。
これに対し監督は正確にこう答えたわけではないがこういう趣旨の言葉を語っていた。
「実際に聞いたわけではありませんが彼らはまず
比較していないように思います。
牛がいるから世話をする。
麦を食べるから麦を育てる。
それだけのことなんです。
そこにこれらのことをしないという
選択肢はないしこうしたらもっといいので
はということもないんです。
ただ生活している。
だから他の人の生活と比べることはないのでは
とおもいます。
また常に生み出し続ける彼らは消費する私たち
とは別のベクトルでの豊かさを知っていると
思います。」
私はこの言葉から2つの点に非常に納得した。
1つ目は「与えられた生活をただ生きる」ということ。
私の目には画面の向こうの生活が非常に豊かに映った。
時間の流れがゆっくりで、ただ生きることにあるだけの時間を使っていた。
しかし彼らにしてみればそうするしかなかったのだ。
与えられ、定められた生活の中で楽しみや豊かさを生み出している。
私たちには選択肢が多すぎる。
自分次第でいくらだって、なんにだって変われる。
しかしこの選択肢があるということは同時に非常に恵まれているということでもある。
一方でこうも考える。
選択肢の多さは私本当にたちの心を豊かにしているのだろうか。
それとも貧しくしているのだろうか。
2つめは「生み出すことと消費すること」である。
ラダックの家庭で生きるおばあちゃんは毎日牛乳を絞りバターを作る。
筒状の容器に牛乳を入れその上から長い棒を入れ
何度も押して引く。 餅つきのような感じ。
この餅つきのような動作を5000回やった先で
やっとバターが出来上がる。
そこにはスーパーマーケットなど存在しない。
もしバターが欲しかったら私たちはスーパーで
すぐに買うことができる。
コンビニに行けば大抵どんなものも手に入る。
音楽は滝のようにながれ、映画もアニメも漫画も溢れんばかり。
麦を刈りながら彼らは歌う。
自分で作った歌を歌う。
牛の背中を押しながら唱える。
チベットのマントラを唱える。
私たちはどうだろう。
顔の見えない誰かが作ったものを消費している。
形のないものを生み出し、消費している。
自分の手で作ったものを消費するのではなく
ありがたと感謝しいただいたのはいつだろう。
誰かが作ったものではなく
自分で作った歌を歌い、
物語を語ったのはいつだろう。
面倒くさい、時間の無駄だと思い捨ててきた
沢山の「生み出す」ことが
実は私たちに豊かさを与えてくれていたのかもしれない。
これまでは自分たちが沢山持っていて、
相手は何も無いと思いこみ
支援や援助という言葉を使い生活に入り込む。
しかし実際には良いことをしているという自負を持つことで自分が満たされたかっただけなのではないだろうか。
そして入ってみてわかるのは自分はあまりに無力であり、既に満たされ、豊かさを知る彼らに助けられ、施されるのである。