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貴船神社の結社と和泉式部の歌碑
こんばんわ、唐崎夜雨です。
昨年の7月11日に京都の貴船神社へ参りました。そのときの思い出語り三日目です。
昨年の話なので現在と少し状況が違っている可能性はあります。あらかじめご了承ください。
さて、貴船神社は貴船川下流から本社、結社、奥宮とあります。本社参拝ののちに結社を通り越して奥宮へ参りました。そして奥宮参拝ののちに結社へ参りました。
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貴船神社の本社と奥宮のご祭神は水神・龍神の高龗神〔タカオカミのカミ〕でしたが、結社のご祭神は磐長姫命〔イワナガヒメのミコト〕です。
結社の境内は近年整備されたような趣があります。あんまり綺麗すぎると御由緒が古くとも新しくできた神社のような心地がして、古社好きな唐崎夜雨にはちょっと残念に思われます。
一方で、いくら古社といえども手入れも行き届かず朽ち果てようとしている神社を見るのは悲しいものがあります。
無責任な旅人は、たいしたお賽銭すら出さないくせに、こうゆうふうに勝手なことばかり申します、ご寛恕ください。
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結社の御祭神である磐長姫命は、縁結びの神として信仰されているようです。
結社の境内には和泉式部の歌碑があります。
歌碑は自然になのか人為的なのか分かりませんが、白いまだらの模様があり、それは歌に詠まれる蛍を想起させます。
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貴船の神さまはむかしより恋を祈る神さまといわれていた。境内の歌碑案内版によりますと『後拾遺和歌集』に次のような逸話が載っているという。
和泉式部は男に忘れられていたころ、貴船に参りました。貴船の川を飛ぶ蛍をみて詠む。「ものおもえば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞみる」(あれこれと思い悩んでここまで来ますと、蛍が貴船川一面に飛んでいます。そのはかない光はまるで自分の魂が体からぬけ出て飛んでいるようでございます。)すると返しの歌が男の声で和泉式部に聞こえてきた。「おくやまにたぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかりものな思ひそ」(・・・要は、そんなに深く考えなさるなよ)これは貴船明神のお返しと伝わる。
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ちょっと、ツレないことを申します。
縁結びに御利益がある磐長姫命を祀る結社に和泉式部の歌碑がありますが、磐長姫命と和泉式部とはあまり関係がないようにおもうのです。
和歌は、和泉式部が恋の悩みを歌に詠んだのであって、恋愛の祈願をしたわけではない。また、貴船明神も恋の祈りを受けたのではなく、それほど思い悩むなよと歌で返したにすぎない。
ただし、和泉式部はわざわざ貴船に来たのですから、貴船明神になにかを祈願していると思う。この和歌のように恋に悩んでいたのですから恋愛祈願をした可能性はある。
しかし貴船明神の声は男である。結社の磐長姫命は女神である。当然、和泉式部に歌を返したのは本社ならびに奥宮の御祭神である高龗神であろう。
実際、和泉式部がお参りした貴船明神とは、永承元年(1046)に洪水により流失する以前の貴船社、現在の奥宮の地にあったころと思われる。
というわけで、和泉式部の恋の歌と結社の磐長姫命とは関係がなさそうである。
もう少し突っ込めば、和泉式部の時代に磐長姫命を祀る社が存在していたのだろうか。
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大正四年に京都市が編纂した『新撰京都名勝誌』では、貴船神社の摂社として「川尾祠(本社の西北に在り、賀牟良姫を祭る)、牛市祠(本社の東北に在り、木花開耶姫命を祭る)、鈴鹿社(本社の西山下に在り、大比古命を祭る)、白鬚祠(猿田彦命を祭る)、結神祠(本社の北二丁余、路傍に在り、磐長姫命を祀る)之なり」と紹介されている。
この結神祠が現在の結社と思われる。
このとき祠と称されているのですから、現在ほど立派なものではなかったと思われます。
江戸後期に編纂された『都名所図会』によると、本社と奥宮のあいだには結社はありません。結構いろいろ詳細に描いているようですが、描き忘れてしまったのでしょうか。
素人考えですが、図会の記載を正しいとみて江戸時代と大正時代のあいだ、おそらく幕末から明治にかけて結社は社殿が建てられたものと思います。
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ただし、社殿や祠はなくとも、なにがしかの石を依り代とした石神の信仰はあったかもしれません。貴船神社周辺は奇岩名石が少なくない。信仰の対象になるものもあった可能性はある。
創建の伝説には、貴船山中の鏡岩に貴船大神が降臨したというものがある。また結社境内には貴船の山から出土した天之磐舟と称する石が置かれているし、奥宮には人工的ですが船形石もある。貴船社の下流には蛍石という大岩もある。貴船の東に位置する鞍馬山の奥の院は磐座と思われる。
なんだか恋愛成就で結社をお参りする人には身も蓋もないことになってしまいそうですが、和泉式部と磐長姫命は貴船の地では接点がなさそうなだけで、結社のご利益が変わるわけではありますまい。
そうそう『都名所図会』では和泉式部が蛍の和歌をよんだのちに貴船明神に祈願をしたという話が載っています。
はたして、恋の成就はいかに?
次回は貴船駅から奥宮までの写真散策を兼ねて、貴船神社の摂社末社のご紹介です。では!