紀行note:神戸市垂水区 海神社
唐崎夜雨は海が好き。
と、申しても夏の暑いときの海水浴ではない。人のあまりいない季節外れの海が好き。
おだやかでひねもすのたりな春の海も結構、寂しげな浦の苫屋の秋の夕暮れも感慨深いものがありそう。
ちなみに日に焼けると赤くなる体質で、ひと皮むければ元の木阿弥。もうシミが残るだけかもしれない。
九月三十日、神戸市垂水区にある海神社を参拝。
前日須磨を歩いたのでこの日は明石を歩こうと思い立つが、須磨と明石の間にある垂水の海神社にも参拝しておこうと立ち寄った次第。
JR垂水駅のすぐ南側に神社は鎮座。アクセスが非常によいのも参拝理由のひとつ。
垂水駅を降りて南へ、ちょっと迂回する格好だが、いったん社前を東西にはしる国道に出てから神社を参拝。
神社は南面して神社は建ち、海に向かっているので、北側を通る鉄道には背を向けた格好。
海神社は「わたつみ じんじゃ」と訓ずるが、一般には「かい じんじゃ」とも呼ばれている。
ただし「海神社」を「わたつみじんじゃ」と読ませたのは本居宣長で、古訓は違う。垂水の地にあるので「海」と書いて「たるみ」と訓じたり、あるいは海人族の祭祀から「あま」と読ませていた。
対馬にある式内社で海神を祀る「わたづみ神社」は「和多都美」の表記であることからもこれは察せられる。
御祭神は、
・上津綿津見神
・中津綿津見神
・底津綿津見神
そして大日孁貴尊を配祀。
延喜式神名帳に「播磨国明石郡 海神社三座」と記されているので、古くから綿津見神三柱が祀られていた。延喜式には名神大社に列している。
南北朝のころから江戸時代にかけて海神社は「日向大明神」と称していた。その名に引きずられるように天照大神が加わり、現在では海神三座と大日孁貴尊(アマテラスの異称)が祀られている。
御由緒は神功皇后が新羅征伐から帰国の際、このあたりで暴風雨にあい船が進まなくなり、皇后がこの地で海神三柱を祀ると嵐もおさまり無事に都へ帰ることができたと伝える。
『日本書紀』にある広田神社、生田神社、長田神社、住吉大社の創建物語と類似しているが、書紀は海神社創建には触れていない。
地理的にみて海神社は明石海峡に接し、大阪湾の入り口でもあるから海路の要衝地。神功皇后かどうかはともかくとして、はやくから海の神の祭祀が行われていただろう。
また海神社の西に五色塚古墳がある。兵庫県下では最大級の古墳であり、4世紀末から5世紀初頭の前方後円墳。
被葬者は明石垂水地域の豪族であるとも、またはヤマトの王族であるともいわれている。海神社の祭祀に関係がありかな。
また、福岡の志賀海神社と同じ祭神ですから、古代の阿曇(安曇)氏との関係もあると思われる。
海神社の本殿の西側に猿田彦神社、稲荷神社、蛭子大神が、東側に天神社がある。
また境内の南に大鳥居が立つ。むかしは海浜に面していただろう海神社もいまは道路や建物に阻まれてしまっている。
これは旅人のひとりごとと思って聞き流せばいいが、海の神が海と切り離されてしまったようで幾分惜しまれる。
それでは、明石へと続く。