怪文書「地獄のトマト煮」
この文章は、本来であれば「エッセイ」と呼ぶべきものであるのだろう。
しかしながら、少なくとも今のわたしは正気であるはずだ、という願望を込めて「怪文書」と呼びたい。
多少どうかしてる時でないと、わたしには文章なんて書けないのだ。
その日のわたしは、とても落ち込んでいた。
仕事は遅々として進まなかった。顔面にはどうにか笑顔を貼り付けていたが、不機嫌で、何もかもが気に食わなかった。端的に言うなら、楽しげな人々には片っ端から泥をかけて回りたい気分だった。そんなことをしても何もいいことはないのに。人々は不快になり、わたしの株が下がるばかりだというのに。
加えて、体調もよくなかった。
台風により気圧が乱れ、冷え込んだせいもあるだろう。胃だか腸だかわからないが、腹がそこはかとなく痛む。その上では、昼飯が喉につかえたように吐き気を誘発していた。頭は重く、痛みもあり、おまけに火照り、そのくせ熱はない。熱がなく咳もないので、きっと流行り病ではないのだろう。
腹が減らない。家に着いたらさっさと寝よう。でも今日は洗濯しないといけないんだよな。ああもう面倒くさい。
無人の家は無意味に明るかった。
愚かにも、廊下の電気をつけっぱなしで出ていたようだ。
いまいましい気分を噛みしめながら玄関を閉めたら、今度は蜘蛛が顔を出した。わたしは蜘蛛が大嫌いだ。小さい悲鳴を上げながらバンバンと壁を叩き、傘の先で床をつつき回し、どうにか追い出した。
なんなんだ今日は。
床に転がり目を閉じたが、心身を包む不快感が寝落ちを妨げる。
腹が鳴った。胸焼けは取れないくせに、その下の胃は空っぽの合図を出して憚らない。
何か食べろって?
鳴った腹をそのまま立てて、渋々起き上がった。
のろのろと、ぶよぶよのトマト3個とぶよぶよのほうれん草1束、そしてぶよぶよではない鶏むね肉のパックを冷蔵庫から取り出した。
ぶよぶよのトマトは昨日の特売。ぶよぶよのほうれん草は1週間前に買った残り。ぶよぶよでない鶏むね肉は、昨日ささみと間違えて買ってしまって持て余していたものだ。タンパク質を効率よく摂ろうと意気込んでいたところでのミスなので、これもまた今日の落ち込みの原因だった。
この家には鍋がない。深めのフライパン一丁しかない。食材を洗うだけ洗って投げやりに切り刻むと、ごちゃ混ぜにフライパンに入れた。
その中に、瓶に残っていたオリーブオイルを空になるまで流し込み、塩コショウをぶんぶんと振り入れた。少し振りすぎた気もするが、知ったことではない。わたしは腹を立てているのだ。
そのまま、コンロに火をつけた。
次第にジュウジュウと、熱された食材が陽気な音を立てだした。オリーブオイルを被ったほうれん草の切れ端が、熱を受けて鮮やかに透き通っていく。
トマトはぶよぶよだが、3個150円にしては大ぶりなものだった。フライパンの中身は半分以上、トマトで占められていた。
わたしは彼らに、トマト煮になってほしかった。
トマトから自然と水分が染み出ることを期待したが、トマトは健気にも原形を保っている。ぶよぶよのくせに。
苛立った私はコップに水を汲み、フライパンにぶちまけてやった。愉快なジュウジュウはなりを潜め、次第にぐつぐつとくぐもった音が響き始める。
ざまあ見ろぶよぶよトマト。時折肉から浮き出る灰汁を掬い取りながら、フライパンの中を眺めていた。
湯気は換気扇により、すぐさま霧消する。
食材を押しのけながら大きな泡を沸かせる水面がはっきりと見えた。
何かが足りない。色彩。トマトだ。
冷蔵庫からケチャップを取り出し、3周ほど絞り出した。
ボコボコ、ペチャペチャ、粘性を増して煮立つ赤い液体は、さながら地獄の釜の様相を呈してきた。
ボコボコ。ペチャペチャ。
死にゆくカンピロバクターの無念の声が聴こえる。
熱に晒され無残にも破壊される、ビタミンCの怨嗟も聴こえる。
トマトの皮はいつの間にかずるりと剥け落ち、身のほうはケチャップと共に液体地獄へ堕ちんばかりだ。
ほうれん草の欠片はすっかり絶望し、釜の奥で力なく揺れ動いている。
わたしはちっぽけなコンロに君臨する閻魔大王となり、腕を組んでいた。
哀れ、食材には何の罪もない。頭が高い、何様だ、農家に感謝せよ、流通に感謝せよ、安全な食に……閻魔の良心がわたしを咎めるが、その声も遠くなっていく。
フライパンを火にかけてから、30分が経っていた。
徐々に、ほんの少しずつ、泡の弾ける音がだんだんと明るく激しくなってきた。スープが煮詰まってきたのだ。審判の時が近づいている。
ふと、悪魔の囁きが聞こえた。わたしは素直に従い、冷蔵庫を開け、なくなりかけの裂けるチーズを取り出し、中身を食器の底に詰めた。
悪魔は満足げに笑った。わたしの口角も、にんまりと上がっているのがわかいよいよバチバチと鳴り始めたフライパンの火を止め、とりあえず食べられそうな分だけを食器によそった。
いただきます。
うまい。
甘く温かなとろみが喉を通り、萎びた胃を揺さぶって活気を取り戻した。
もも肉は十分に熱が通っていたが、決して固くなりすぎず、プリッとして食べやすい。
悪魔のチーズが糸を引き、肉に絡みつき、緑色を失ったほうれん草に絡みつき、実体をなくしたトマトに絡みつき、コクを出していた。
そして、ありったけをぶっかけたオリーブオイルがスープを包み込み、煮立った地獄を深く安らかな眠りに導いていた。
希望を失い、死に絶えたこの星は、これからわたしの血肉となり、いつか新しい生命が誕生するのだろう。
目が潤む。胃の温もりは、腹から始まり手足の末端まで、幸福を送り届けていく。
わたしは一度、完璧な幸福に至ったことがある。
足の手術のために全身麻酔を施され、手術の終了とともに目覚めた時だ。
痛みはまったくなかった。手術の成功を確信し、苦痛の消滅を確信し、恒久的な世界平和を確信した。なんだ、気がついてしまえば、至って簡単なことだったじゃないか。幸福の原理を理解したわたしは金輪際、不幸になることはない。
忘れもしない。もはや悟りの境地にいたわたしは、痛くないですか、気持ち悪くないですか、と遠くから呼びかける看護師さんに向かって「この世から苦しみがなくなりました」と宣言したのだ。
その後のわたしが譫妄の疑いで個室に隔離されたのは言うまでもない。
ふと我に返ると、地獄は跡形もなくなっていた。
明日の朝の分まで、わたしの腹に収まったのだ。ごちそうさまでした。
地獄の跡地に水を張り終えたわたしは、茫然と恍惚の狭間で、ベッドの上にぼーっと座っていた。
このまま寝てしまってはいけない。この感動を書き留めなければ。ニワトリの命・野菜の恵みと引き換えに、わたしは幸福を手にしたのだ。
そう。その時のわたしは、最高に、どうかしていた。
そういうわけで、感傷に浸りきったわたしは満腹になり、一周回って少し元気になった。あまつさえ「明日は頑張ろう」という気分にまでなったのだった。よかったね。
地獄のトマト煮ですが、気がついたらなくなっていたので写真はありません。またやりたいです。
おしまい
追記:サムネイル画像は「TrinArt」で生成しました。
prompt:「写実的な地獄のトマト煮」
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