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お餅の話 よくわからないなりに #3

小学校の頃のおはなし。

お餅が好きだ。
小さい頃からずっと好きだ。

我が家はみんなお餅が好きで、一年中通して、週に3〜4回は食べていた。
なので、18歳で一人暮らしをし始めた時も、お餅のストックは絶対に欠かさず、主食のように食べていた。
が、それをみた友人たちは、お餅なんて正月くらいしか食べないという。
初めはそっちの方が少数派かと思っていたが、我が部屋に遊びにくる人たちは、お餅を見つけては同じことを言い、だんだんと”正月のみ派”の割合が増えてゆくにつれ、他の子、というか家では、さほどお餅は食べないらしいと認めざるを得なくなった。
しかし、今暮らしているのは関西、大阪だったことから、
「そうか、私の生まれ育った横浜が、お餅をよく食べる地域なんだな。」
そんな風に勝手に納得した。

で、夏休みに帰省した際、いつも通りお餅を食べながら、
「関西ではあまり餅を食べないらしい」と母親に話したところ、
「いや、こっちでも、こんなにお餅食べるの、たぶんうちぐらいだよ」
と、あっさり返された。

なに?
だたしかし、それは素直に納得できない。

なぜなら、今回の思い込みには珍しく根拠があるのだ。
小学生の頃、私は、よく遊びに行く友達の家々でも、しょっちゅうお餅を食べていた。はっきりと記憶がある。だからこそ、横浜ではお餅をよく食べるのだと思ったのだ。以上を反論すると、母は大変満足そうに、それでいていつもどおりクールに笑いながら、

「それ、ママが配ったんだよ。」

と、意外な真相を明らかにした。

当時の私は極度の偏食で、友人宅で出される食事はほとんど食べることができなかった。しかし、加えて極度の人見知りだったので、
食べられない、とか
他のものがいい、とか
これ苦手、とか
そういうことがどうしても言えず、
ただ「お腹すいてない」とだけ、モジモジと繰り返していた。

ある日、そんな私を心配した友人の母親が、
「ゆうこちゃん、一日遊んでてて何にも食べないんだけど大丈夫かしら?」
と母に相談してきた。
すぐに私の好き嫌いの激しさにピンと来た母は、
私がよく遊びにいく友人宅を巡り、
「あの子がお腹いっぱいっていう時は、たいてい好き嫌いで食べられないんで、焼いて出してやってください。」
そう伝えながら、餅を配ったそうだ。

これは聞いていて、耳鳴りがしてくるほどに嬉しかった。

母はかなりドライな性格で、
なんでもサッサとテキパキこなす元体育教師。
私とは正反対と言える人間で、
私のことを理解しようとするのは、早々にあきらめたと昔から言っている。
実際、私と母は水と油で、
私が何か少し話をしただけで、聞いてもいないアドバイスを勝手にしてくるとこも、
マイペースに楽しむ私を愚図と言い放つとこも、
不器用ながら一生懸命やっているものを取り上げて、
自分でササっと仕上げて得意げに返してくるとこも、
本当に苦手だった。
愛情表現はいたってドライながら、
当時は家庭の問題が重なってヒステリーも出るという、
感情の振れ幅が激しい母を、
子どもの私は持て余し、
正直、かなり怖く、少し冷たい人だと思っていた。

でも、
こうして私の気づかぬところで、
どれだけ生きやすくなるよう助けてくれていたんだろう。
どれだけドライにさりげなく助けられていたんだろう。

話を聞いた当時は心がまだ青くて、
そんなことしてたの!?という恥ずかしさが思春期らしく優っていたが、
最近ようやく、ごく素直に、
このお餅の中に溢れる”温かみ”をしみじみ味わえるようになった。

そういえば、心が一番苦しく真っ暗になってしまった時期、3年ほど和菓子作家のお師匠の下で修行をし、和菓子の力を借りて自分を立て直した。
来る日も来る日も、鎌倉の山奥で和菓子に集中する時間は、最高のリハビリだった。
中でも、求肥が愛おしかった。
毎日作りたての求肥が生まれるたびに、ほっと息をついて、ひと撫でして、ぷわぷわとした求肥を指でさすりながら、赤ん坊のお尻のようだと慈しみ、
その度に、心がほっくりと癒されていた。
もしかしたら、できたての温い求肥の中に私は、母に繋がるお餅の温もりを見つけていたのかもしれない。

こんなことを想う日がくるとは、人生捨てたもんじゃない。
これからもさらに、過去を掬い直して、救い治せるならば、
年を重ねるというのはなんとありがたいことだろう。

クロアチアでも、相変わらずお餅をたくさん食べている。
お餅、うめぇ〜〜〜。



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