
ライブ映画『デヴィッド・バーンのアメリカンユートピア』はロックファンなら絶対見るべし。
まったくもって世代ではないからこそ、見なくてはいけないライブがあります。
それはリアルタイムで見ることのできないレジェンドと呼ばれる人たち。
僕に関してはサマソニでその多くを体験した結果、「死ぬ前(アーティスト側が)に見ないと後悔する精神」が養われ、そういった人たちのライブにはできるだけ足を運ぼうと決めました。
わかりやすい例がsir. ポールマッカートニーですね。まだまだ元気そうで嬉しいですが笑
他にもサマソニで見たセックスピストルズのジョンライドンは太っていてお世辞にもパンク感はなかったし、ザ・フーは象徴的なパフォーマンスがあるからこそ自分たちが自分たちであるためにやってる感じが出てしまっていたり、
ドアーズはそもそもボーカルが違っていたりするという幻影を追いかけたが故に幻滅してしまうこともあります。
それでもクイーンのブライアン メイと一緒に合唱した「手を取り合って」はいい思い出ですし、レジェンドのライブに立ち会えること自体、なんだか夢の空間にいるように思えるのです。
さておき、ここ最近はやはりYoutubeを見ることが増えたんだけど、なぜか急におすすめに出てきたのが、この動画。
「いやー、こんな映画あるなんて知らなかったー!」と
すぐ調べてみると、公開日は5月とかなり遅れて知ったわけだ。(普段映画もこの界隈もチェックしてない。)
早速、上映館を調べて近くの映画館に駆け込むことになった。
さて、デヴィッドバーンという名前を聴いてピンとこない人は、トーキングヘッズというバンドを知っているだろうか?
知らない方は、まずヴァンパイアウィークエンドを思い起こして欲しい。彼らの特徴はアフロリズムを取り入れたギターポップで、インテリバンドというところからも当時トーキングヘッズがまず引き合いに出されたのも記憶に新しい。
彼らは主にNYを中心に活動。パンクの聖地「CBGB」出身ながら、アフロリズムを大胆に取り入れたサウンドで、ポストパンクやニュー・ウェイヴとして表現を拡大していった。
活動期間は主に70年半ば~80年代後半で1番有名なアルバムはジャケをみると知っている人も多いかもしれない。
ちなみに僕自身ちゃんと聴いたことがあるのはこのアルバムのみで、他はうっすらと聴いたことがある程度の知識。もちろん当時の熱狂なぞわからん。
このバンドの中心人物であったデヴィッドバーンが今回の主役な訳だが、この映画というかライブ映画?作品は、2018年のアルバム「アメリカンユートピア」発表後、翌年に行われた伝説となったブロードウェイでのSHOWを映画配信化した作品。監督はなんとスパイクジョーンズ。
トーキングヘッズが世代ではなく、有名なアルバムしか聴いたことない自分でも彼らの実験的でありながらしっかりポップでもあるという特異な音楽性やスタイルには大きく惹かれていて、これは好奇とばかりに音がいいであろうドルビーサウンドが入った映画館に向かったのだった。
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上映が始まると、デヴィッドバーンが一人で脳みそ片手に、「この箇所はなになにを司ってる」と説明するように歌い上げる。バンドの姿は見えずまるでプレゼンテーションのようだ。
英語の歌詞が字幕で表示された状態で見ると、よくわからなかった歌詞もすごく理解出来るのを感じる。これは映画という見る+聴くが良い相互作用を起こしてるからかもしれない。
少しすると、彼の他にサポートのダンサーが2名登場し、コンテンポラリーな表現を見せ始める。何もない舞台、見えないバンド、スーツ姿に裸足の3人が不思議な振り付けを入れながら語るように歌う。
完全に予備知識ゼロで見にきたからこそ、ここまでコンセプチュアルだとは思わず「これはすごいことになりそうだ」と開始から胸躍ることになってしまった。
次の曲ではさらに二人が登場し、照明の演出に合わせて演奏しながら音に合わせてパフォーマンスを行うのだ。セットリストが進むにつれ、徐々にバンドが姿を見せ始めSHOWの全容が少しずつ明かされていくのだが、そこでふと気付かされたのが
「このバンド、演奏しながらパフォーマンスもしてるぞ‼️」
今回の11人のミュージシャンは全てマーチングスタイルで立ったまま全ての楽器を演奏しているのだけど、演奏しながら指定の位置に移動して見事な体型を作ったり、照明やタイミングに合わせて掃けたり、楽器を換えたりと彼らはキャストであり、パフォーマーであり、プレイヤーなわけだ。
舞台の上を動き回るから、そこには配線もアンプも楽器も何も存在しない。
途中、デヴィッドがよく記者や友達に「口パクではないか?」と聞かれることがあるとうんざりしていた。
それは確かに自分も同じことを思っていて、まずバンドがいない状態から始まるのでオケが流れていると勘違いしてしまう。
後からバンドが登場し、しかも立ちながら機材もなくパフォーマンスしながら演奏してしまうわけだ。
要は人は凄いものを見た時「これは本当か?」と疑ってしまうのだが、その疑問も当然だと思う。そして生音だと証明された時にはスタンディングオベーションするしかなくなるわけである。
そもそもバンドが、バンドではない形態でライブをすること自体非常に珍しいものだが、まずこのSHOWはバンドがすごい。
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予備知識なし、聴いたアルバムは1枚のみとは前述したが、不思議なことにこの映画の楽曲は全て事前に聴いていたライブかのように、すっと耳から入って心に響く。
40年近く前の楽曲が(もちろんアレンジはされているものの)全く古臭さを感じさせてくれない。
このコンテンポラリーダンスとバンド音の組み合わせはレディオヘッドの「Lotus Flower」にも通づるし、そもそもプログレやアートロックというジャンルはコンテンポラリーダンスと相性がいいのだろうな。
(そういえば、昔レディオヘッドのクルーが乗る車で、トーキングヘッズをたまたまかけてたら、やけに喜んでいた。)
こういったレジェンドのライブは、ある種幻想が強い分幻滅してしまうと話したが、このデヴィッドバーンの音楽の色褪せなさ、そしてそのコンセプト化された表現は、タイムレスで多くの世代に届く普遍的な衝動を感じさせてくれる。
それは心が動くような叫びであったり、芸術表現だったり、喜びだったり、純粋にすごいと思わせる衝撃だったりするわけだ。推しバンドを良かったと思うのは簡単だが映画作品ではあるものの「好き」を超えてここまで純粋に素晴らしいと思ったライブはなかなか無い。
アーティストの事を知らなくても、ロックファンならず舞台関係者までこの映画を見たら、どうして影響を受けずにいられようか。
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舞台上で、デヴィッドが教授のように私たちオーディエンスにたびたび講義するように話すのだが、今回のSHOWは「人に興味を持つ」ことが主題だと語っていた。
だからこそステージには余計なものは何もない、在るのは人だけだ。と。
実際、本来居ないように扱われしまうバックバンド一人ひとりに、興味を持ってしまったのだから狙い通りなわけだが、
コンセプトってある種製作のための目的地みたいなもので、それをあまり”伝える”ことって無いと思うんだけど、デヴィッドは僕らにそれを真っ直ぐ伝えてくる。
コロナ禍生活の中で、緊急事態宣言やらリモートワークやら今は家で一人寂しくソロ活動に明け暮れているのだけど、そんな孤独の中で本当に大事なのは「人と人とのつながり」だと身をもって実感することがあった。
僕の好きなオードリー若林も、人見知り芸人というキャラをガールズバーを経て通り超えたことで、ここ最近の大きな成功の裏には突然「人に興味」を持ったと語っていた。
自分は独りだとつい思ってしまうような人は、ぜひガールズバー…じゃなかったこの映画を見てみてほしい。
久しぶりのライブ体験に震えたら、そのポジティブな感情のまま大切な友達や家族にコネクトしてみよう。