「マイノリティ」とは何か?③~パラリンピック開催に際して
こんにちは、フェミニスト・トーキョーです。
この記事は、東京パラリンピックの開幕日に書いています。
オリンピックもそうでしたが、全世界から集まったアスリートを、満員のスタジアムで歓声に包んで差し上げられないのが大変に残念ではありますけれども、まずは無事に開催までこぎつけられたことを喜び、関係者各位の努力と尽力に敬意を表します。
さて。
そのパラリンピック開幕に際して、こんな話がありました。
毎度おなじみ、フェミニスト界の大御所・上野千鶴子先生ですね。
「女性障がい者たちとその自立を応援する者たち」というグループが、パラリンピックの開催に反対を表明するという主旨の動画が紹介されています。
この動画と同じ呼びかけ人による声明文が、以下のページにあります。
私はこれを読んだ時、2つのことを思いました。
1つは、「マイノリティを自称する人達が何かを主張する時の悪いクセが全て出てしまっている」ということ。
もう1つは、「彼女たちにとって、パラアスリートとはどんな存在なのだろうか?」ということでした。
これらは、常日頃より考えている「マイノリティとは何か?」に通じる話だと考えましたので、文章にしたためてみます。
その言葉は、誰に届けたいのか?
まず1つめの、
「マイノリティを自称する人達が何かを主張する時の悪いクセが全て出てしまっている」
というお話をする前に、恐縮ながら、以前に私が書いた記事を少々振り返らせてください。
これは、伊是名夏子さんのJR乗車騒動を元に、彼女らが考えるマイノリティとは一体何なのだろうか?という点を掘り下げた話でした。
ざっくり申し上げると、伊是名さんのように社会に対して問いかけを続けるマイノリティは「ノイジー・マイノリティ」と俗に呼ばれます。
でも実際には、彼女らと一緒に声を上げたりはせず、現状の社会ルールに則ることが正しいと考えるマイノリティもたくさんいて、ノイジーな一派は、そうした人たちに対しては「なぜ貴方たちは仲間に加わらないのか?」という問いかけも行なっています。
それが一番ショックでした。「自分たちは段取りよくやっているのに、あなたはわがまま」などの指摘がありました。
障害者がまだ生きやすくなったのは、私たちの「先輩」に当たる障害者の方たちが、時に座り込みまでして訴えてくれたからです。その結果、電車にも乗れるようになりました。そういう歴史を私は知っています。
不便さに慣れ、「わきまえる障害者」でいる人は我慢しなくていいんです。一緒に社会の理不尽さに異議を唱える「仲間」になってくれたらうれしいです。
<引用「わきまえる障害者になりたくない」JR東の対応に声上げた、車いすの伊是名夏子さん~朝日新聞GLOBE+」>
つまりノイジーマイノリティの方々は、声を上げないマイノリティは仲間ではないと考えている、という可能性を懸念しました。
そこで、声を上げないマイノリティを、便宜上「サイレント・マイノリティ」と名付けました。
勝手な造語ですが、このサイレント・マイノリティは、社会のいろいろな場面で重要な役割を担っているように思ったのです。
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振り返りはこれくらいにして、
「マイノリティを自称する人達が何かを主張する時の悪いクセが全て出てしまっている」
の話に戻りましょう。
私が考える、この主張する時の悪いクセとは何かというと、
①まるでそのマイノリティ属性の全権代表者かのように語る
②誰に向かって言っているのかはっきりしないまま語る
③到底、現実的とは思えないゴールを語る
といったものです。
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まず①ですが、この支援グループは、前述の振り返りで言うならばノイジー・マイノリティに分類してよいかと考えます。
そして当たり前の話ですが、全国の女性障碍者およびその支援団体の全員がパラリンピックに反対しているわけではありません。
いわば、ここで主張を展開しているノイジー・マイノリティではない、サイレント・マイノリティの方々もたくさんいるはずなのですが、そのノイジーとサイレントの対比がいかほどなのかを語らずに、全ての障碍者を代表して言っているかのように話を広げています。
これは、半世紀ほども前の情報メディアが限られていた時代であれば、ある程度は通じたプロパガンダでした。
ですが今さら言うまでもなく、最新ニュースがTVや新聞よりも早く、各官公庁が提供している統計資料も、大学の論文も、国会図書館の蔵書検索も、あらゆる情報が手のひらの上でわかるようになった時代に、もうそれは通用しないのです。
SNSでちょっと検索すれば、パラリンピックに賛成しているサイレント・マイノリティの意見がいくらでも見つかるのです。
障碍者の中で統一された意見ではないことは、すぐに分かってしまいます。
そんな時代に、それもYouTubeの動画を使っているにも関わらず、情報リテラシーに欠けると思われてしまうような広報の仕方は逆効果でしかありませんので、方法を考え直したほうがよいと思います。
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次に「②誰に向かって言っているのかはっきりしないまま語る」ですが、声明文における、パラリンピックに反対する理由というのが、
・オリパラは国民に対して、コロナ禍にありながら、あたかも命以上に大切なものがあるかのように演出しマインドコントロールを行なっている。
・オリパラの開催費用は国民のために使うべき。
・オリパラという国家事業を、個々の命や暮らしよりも優先させている。
といった内容になっています。
個々の主張は、それぞれの方の本心でしょう。それは疑いません。
ただ、よく分からないのが、この声明文は一体誰に向けて発信しているのだろうか?ということです。
これは主観が混じることを承知で申し上げますが、いずれの主張も、パラリンピックを中止させるほどの明確な根拠は感じられず、統計資料など具体的な数値に裏付けられているわけでも、言ってしまえば、個人の経験と感情論が先に立ってしまっています。
政府に対して発信したいのでしょうか?
ですが恐れながら、たとえこの文言が総理大臣やIPC会長の耳に届いたとしても、パラリンピックを中止しようと考えるほどの論理的な内容ではないと思ってしまいました。
では、いったい誰に向けて発信しているのか?
私には、これは単に、
「そうだ!その通りだ!」
「パラリンピックなんかやめちまえ!」
と言ってくれる人、つまり、もともとオリンピック・パラリンピックに否定的だった人の賛同を得るためのもので、それ以上にもそれ以下にも見えないのです。
正直なところ、パラリンピック開催に積極的に賛成している人、そして、積極的賛成ではないが反対ではない、といった人たちの考えをひっくり返すほどの説得力を感じないのです。
もしこれが、単に賛同者を喜ばせるためだけのものなどではなく、本当に本気でパラリンピックを中止させたいと思っているのであれば、少なくとも感情論ではなく、経済効果とコストの関係、開催における感染対策と医療崩壊の因果関係などをきちんと具体的に提示した上で、
「中止したほうが国民にとってメリットになる」
ということを、世の中の過半数の人が「おお、なるほど」とうなづくレベルの論旨で語れば、何かが動くということもあるかも知れませんが、この声明では、
「わかる人にしか伝わらない」
という代物でしかないと感じております。
言いたいことを書き連ねただけでは、こんなnoteと同じです。
本気で何かを変えたいのであれば、誰に何を伝えたいのかだけでもまず明確にする必要があると思います。
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それと「③到底、現実的とは思えないゴールを語る」ですが。
RTされた動画が公開されたのは8月22日です。
8月24日から開催されるパラリンピックを「中止する」などとは、夢物語に近い話です。
現実的ではないゴールを語るというのは、世の中を動かしている層の人たちにほど伝わりません。
別にオリ・パラの関係者でなくとも、社会に出て普通に仕事をしている人であれば、あれほどのビッグイベントなら、大中小のあらゆる企業が参画していることは簡単に想像がつきますし、日本だけでなく、世界中の競技関係者が、何年も前から多大なリソースとコストをかけて今日この日に向けて邁進してきたことも理解できるでしょう。
繰り返して申し上げるなら、非現実的なゴール設定は、常識がある人にほど伝わらないのです。
それこそ②と同じで、賛同者の耳を楽しませる以上の効果など無いでしょう。
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こうした論説に固執する自称マイノリティの方々は、もっと真っ当にマジョリティと向き合うべきなのです。
マジョリティは心底憎いかも知れませんが、少なくとも彼らは馬鹿ではないのです。
たまに馬鹿げたこともしますが、いま社会を動かしているのはマジョリティなのも確かです。ただの馬鹿ではない、ということから目を背けては、永久に勝てないと思うのです。
パラリンピックと障碍者繋がりでいけば、車いすバスケを題材にした漫画「リアル」の中で、こんなやり取りがあります。
試合中、格下だと見ていた相手から予想外にしつこいマークに遭い、思うようにプレイが出来ずに苛立ちを見せる主人公に、いつもアドバイスをくれるバスケに対してとても真摯な友人が、
「まず、そいつ(敵)を認めろ」
と、言うのです。
相手はお前が思っているよりも強い。
尊敬はせずとも、その強さには敬意を払え。
それが出来ない限り、それを認めない限り、お前はそいつには勝てない。
といった意味で、主人公は試合の中でその言葉の真意に気づき、克服します。
相手を馬鹿にし、蔑むようなことばかりを繰り返しても、マジョリティには未来永劫ずっと勝てないでしょう。
手強い相手だとまず認めた上で、周到な準備と、それを実現できる知性とリソースを揃えてこそ、相手に対峙できるのではないでしょうか。
パラアスリートは、ノイジー?サイレント?それとも?
声明文に関して思ったことのもう一つは、
「彼女たちにとって、パラアスリートとはどんな存在なのだろうか?」
でした。
私は、パラアスリートを心から尊敬しています。
私自身は障碍者ではありませんが、だからこそ、彼ら彼女らが、あのパラリンピックの舞台に立つまでに、いったいどれほどの辛苦を乗り越え、努力を重ねてきたのか、それを想像するだけで、いやもちろん私の想像など遥かに超えたところを通り過ぎてきたのだと思うのですが、そう思うだけで頭が下がります。
ただ、あの声明を出した彼女たちからは、パラアスリートとはどのように見えているのでしょうか?
自分たちと一緒に反対はしてくれないのですから、ノイジー・マイノリティではないのは確かですね。
かと言って、サイレント・マイノリティでもないでしょう。パラアスリートは自分たちの競技や演技で、自らを表現するパフォーマーです。そういう意味では、「黙ったままの」「何も言わない」人たちではありません。
であれば……もしかして、マジョリティの仲間だと思っている?
これは意外に当たりなのではと思っています。
反対の声を押し切って、たくさんのマジョリティからも称賛を受けて輝いている彼らはもう、立派にマジョリティの仲間であろうと。
となると、マイノリティやらマジョリティやらという区分は、単にどこかのグループが勝手にそう呼んでいるだけのもの、ということになってしまいすよね?
残念ながら、その通りです。
何故かと言えば、おそらく世の中で、マイノリティの方々が「マジョリティ」と呼んでいる人たちというのは、そのほとんどが、自分がマジョリティであるなどということは意識しないで生活していると思うからです。
加えて言うなら、どの辺りまでをマイノリティとするか、マジョリティとするかは、常にマイノリティの人達が勝手に決めているからです。
例えば、障碍者ではなくこれを女性に当てはめてみると、男性社会の中で努力して成功した女性は、「名誉男性」などと呼ばれて、同じ女性から揶揄されることがあります。
しかし、当の本人からしてみれば、努力を重ねてそこまで辿り着く過程の中で、どこから名誉男性になったのか、などということは、当たり前ですが意識などしていないでしょう。
そして呼ぶ側も、実際には特に基準があるわけでもなく、自分が勝手に名誉男性だと思うからそう呼んでいるだけのように見受けられます。
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話を整理しますと。
弱者の視点から語る、という論点は、弱者と強者の境目がはっきりしていない以上、どこかで無理が生じるのです。
もちろん、時にはそうした視点も必要です。
社会的弱者の声に耳を傾けることで、見えていなかった問題点が浮き彫りになるということは、往々にしてあるものです。
そうではなくて。
弱者であるということを武器にして語る、というのは感心しない、ということです。
と、ここまで書いてしまうとさすがに、
「私達は本当に苦しいのだ!障碍者ではないお前に何が分かる!薄情者め!」
などと言われそうなのですが。
私がそもそもこの話をnote記事に起こそうと思ったのは、上野先生のツイートと声明文を読んだからではなく、下記の記事を見たからでした。
人生をボッチャ競技に賭け、東京パラリンピックに出ることを夢見ながら亡くなったパラアスリートの話です。
利き腕のまひなど、症状の悪化にも負けず徐々に成績を伸ばしていった高阪さん。13年に東京大会の開催が決まると、雄たけびを上げ喜んだ。
母・貴美さんは「目を輝かせ、『やったー、やったー』と、出場を誓っていた」と振り返る。
症状が進行するリスクもいとわず、練習に打ち込む日々。リオデジャネイロ大会後の16年11月の日本選手権で初優勝し、パラ出場を視界に捉えた。
その直後、運命は暗転する。17年3月、検査入院で肺炎が見つかり、1カ月後に控えた大会を欠場。その後も入退院を繰り返し、競技復帰できないまま、同8月に帰らぬ人となった。達也さんは「直前の練習で大喜は、神懸かった強さを見せていた。あの状態で試合をさせてやりたかった」と話す。
ただ、悔いはない。「パラを目指せたことで、世界を目にし、多くの経験ができた。短くても充実した人生だった」。大喜さんが亡くなった後、体験会開催などボッチャの普及活動に取り組む。
高阪さんの生涯を知り、借り受けた遺品の競技用具で練習を始めた男性もいる。「競技を見て、世界を広げる人が一人でも増えればいい」。それが貴美さんの願いだ。
彼のように、たった一度きりしかパラリンピックに出る機会が無く、それに向けて人生の全てを注いでいるパラアスリートは、世界中にたくさんいることでしょうし、今大会にも出場してくることでしょう。
あるいはこれもまた、障碍者であることを武器にし、または盾にして語っている話とするならば。
卑怯なのは、はたしてどちらなのでしょうか?
薄情なのは、はたして誰なのでしょうか?
結びとして
私には、記事にあったボッチャ選手の男性が、社会的弱者としてのマイノリティなのか、それともマジョリティと呼ぶべきなのか分かりません。
ただ思うのは、パラリンピックに反対するならば、
「女性は」「障碍者は」「我々マイノリティは」
みたいな枕詞をいちいち付けずとも、先に述べたように
「これこれこういう根拠があり、パラリンピックを開催するのは妥当ではないと考えるので、中止を求めます」
という風に、真正面からきちんと論破すればよいのでは、ということです。
マイノリティは、それを利用しようと考えた時点で「弱者」ではなくなってしまう気がするからです。
それでは、世界を変える言葉にはならないと思うからです。
もうすぐ開会式が始まりますね。
パラアスリートたちの渾身の活躍を、心から楽しみにしております。
(了)
最後までご清覧いただき、誠にありがとうございました。