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「多様性の統一」という大誤訳(または超意訳)の話。

こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。

今回は、以前からちょいちょいご質問をいただいていた「多様性の統一」という、一見するとこの6文字の中ですでに矛盾しているようにしか見えない妙な用語は一体何なのだ?という話です。


多様性の統一で新しい政権を!(意味不明)


 この言葉が急に知れ渡ったのは、2021年の衆議院議員総選挙において、日本共産党が表題の文言を掲げた集会を開き、志位委員長がスピーチを行なったことが発端でした。

共闘というのは立場の違う者が協力することですね、一致点で。ですから私は、リスペクトということが一番大事だと思う。立場の違いがあってもお互いの立場の違いをよく理解し合って、尊重し合って、敬意を払って、リスペクトしながら、一致点で協力することが一番大事ではないでしょうか。

ASEAN(東南アジア諸国連合)の標語に、「ユニティー・イン・ダイバーシティー」というのがある。多様性の統一ということです。これが一番強いと思う。
自公には多様性がない。こっちは多様性で行きましょう。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-10-25/2021102504_02_0.html

 ここで共産党が言っている「多様性」とは、各野党を「個」と見て、それぞれが異なった個性や理想、価値観を持っている、つまり「多様な個」である、という意味合いでしょう。

 そして「多様性の統一」とは、それらの「多様な個」が、大きな目標(言うまでもなく政権奪取でしょう)を目指して互いに手を組むために、妥協点あるいは最大公約数を見出していこう、という話だと読み取るのが、この記事の表題である「多様性の統一で新しい政権を」という話に繋がるでしょう。

 こう書くと、それっぽいことを言っているように聞こえなくもないですが、なんとなく違和感を覚える、という方も少なくないのではないでしょうか。私もその一人です。

 違和感を覚えるのは当然です。だって、前述の話がもしその通りであるのなら、倒すべき自民党・公明党とて「多様な個」の一つとして扱わなければならないのに、「自公には多様性がない」と言い切ってしまっているからです。

 自公がどれほど憎き相手でも、それもまた自民党という「個」であり、公明党という「個」であるはずです。それなのに、それらは多様性を持つ存在としては認めない、輪の中には入れてやらないと言ってしまっているのです。

 仲間外れを作るというのは、多様性のある社会なるものからは最もかけ離れた考えですよね?

 もし共産党の述べるところの「多様性の統一」が前述したようなものであるのならば、与党も野党も関係なく、皆が皆を「多様な個」として認めたうえで最適解を見つけてゆこう、となるべきでしょう。

 多様性の輪に加えたい「個」と、加えたくない「個」を勝手に選り分けるなどというのは、ナンセンスの極みです。


「多様性の統一」はそもそも大誤訳(または超意訳)


 では、そもそも「多様性の統一」なる言葉は、日本共産党が言っている意味で合っているのか?という話なのですが。

 結論から言いますと、

 ぜんっぜん違います。


 よくもまあ、こんな身勝手な意味に解釈したものだと、怒るよりも呆れる気持ちの方が大きいくらいです。

 第一、直訳してもおかしいのですコレ。
 何しろ元の用語は「Unity in Diversity」というのです。
 直訳したとしても「多様性の中の調和(連帯)」であり、無理矢理に統一という言葉を使っても「多様性の中の統一」としかなりません。

 「多様性の統一」なら「Unity of Diversity」であるはずでしょう。
 この「in」が正しく訳されるか、すなわち日本語へと訳した時に「~の中の」が入るか否かで、意味合いが全く変わってくるのです。

 「Unity in Diversity」は、紐解くとかなり古い文献から登場する言葉であるようで、言葉としてはWikipediaなどでも解説されていますが、先に挙げた共産党の記事内では「ASEANの標語として掲げられていた」としていますので、ここでは実際にASEANが「Unity in Diversity」について説明している文章をお借りして読み解いてみましょう。

The concept of ASEAN identity transcends mere geography. It is a shared sense of belonging, a vibrant tapestry woven from the rich cultural traditions of its Member States. While each nation boasts of its own unique heritage, initiatives at both the national and regional level are fostering a spirit of regional unity and strengthening the bonds of friendship and cooperation within the region.

(DeepL翻訳)
ASEANにおけるアイデンティティの概念は、単なる地理を超越しています。それは帰属意識の共有であり、加盟国の豊かな文化的伝統が織り成す活気に満ちた一枚のタペストリーです。それぞれの国が独自の遺産を誇る一方で、国と地域の両レベルにおける取り組みが、地域の団結精神を育み、ASEAN域内の友好と協力の絆を強めているのです。

https://knowascc.asean.org/content/identity/

 要約するならば、「参加している各国が、自国の文化を捨てることも打ち消し合うこともなく結びつき、それぞれが自らを誇りつつ互いへの尊重を忘れずに繋がり合っている」といったところでしょうか。

 共産党が言うところの「多様性の統一」が、これと最もかけ離れているのは、互いに手を組むための妥協点やら最適解を見つけることが「統一」だ、というニュアンスが加えられてしまっている点です。

 この共産党の言い方ですと、手を組むこと自体がゴールになっていて、それこそが「統一」なんだ、という風になるわけですが、もういかにも覇権と派閥争いにまみれた政治家の考えそうなビジョンであり勝手な解釈だな、と思わざるをえません。

 元の「Unity in Diversity」が説明しているのは、そんなドロドロした探り合い・化かし合い・知略戦略みたいな政治的な話ではなく、お互いを尊重した上で、お互いを否定せず、かつ無理をすることもなく自然に結びついている状態を差しているわけで、それが「活気に満ちた一枚のタペストリー」という表現に結びついているのでしょう。
 なんでこんな美しい表現を都合よく曲解してしまうのかと。重ねて呆れます。

 もちろん、現場レベルでは相互の主張がぶつかることも起きるでしょうし、実際には妥協点を見出しながら進まなければならない場面も多々あることでしょう。
 でも全体としては、互いの文化や誇りを傷付けることなく進む道を模索していこう、というのが、ここで語られている「多様性の中の調和」だと考えるのが自然ではないでしょうか。

 まとめると、「Unity in Diversity」とは「多様な存在はそれぞれ多様なままでよくて、それらが尊重し合いながら上手く結びついている状態」を指す言葉である、ということです。

 間違っても、「多様性を統一して悪い敵を倒すぞ!エイ、エイ、オー!」なんていう情けない掛け声に使うような標語ではない、ということです。


 ……よくよく考えたら標語ですらないですねこれ。ASEANのサイトでも、理念の一つとしてゆったりと紹介されているだけのような気が。

 だいたい「標語」ってなんだろう。
 単に記事を書いた人が、「標語」とか「合い言葉」とか「スローガン」みたいに、全体の意思統一と協調を促す言葉が好きなのかな、と思ったりしました。はい。


 というわけで、共産党が勝手に「多様性の統一」なる超ヘンテコな言葉に意訳してしまっただけで、「Unity in Diversity」とはもともと政治的な視点で使われるべき言葉ではなく、異文化が調和した状態を表現するための、それこそ多様な意味合いを持つ言葉であることをご記憶いただきたい、と思う次第です。

***

 ちなみに、しんぶん赤旗において記事が書かれた当時でも、イスラム文化の研究者さんが「多様性とはそんな風に使うべき言葉ではない!」と、怒りの反論をしてらっしゃいます。

しんぶん赤旗は10月24日、「多様性の統一で新しい政権を」という見出しの記事を掲載した。見た瞬間、一瞬わが目を疑った。これほどの短文にこれほど明白な矛盾が凝縮されている例も珍しい。
多様性とは互いに異なる人や生物の集まりの意である。互いに異なるから多様性なのであり、それが統一されてしまってはもはや多様性は存在し得ない。
これは野党共闘を呼びかけた共産党の志位和夫委員長の言葉だという。多様性という聞こえのいい言葉が用いられているものの、このフレーズの本質は異論を認めない「全体主義宣言」だ。

言論萎縮させる「多様性の統一」 イスラム思想研究者・飯山陽

***

 もう一つちなみに、誤訳によって意味合いが変わってしまい、そのせいで余計な誤解を招いたと私が常々思っている言葉として「生理の貧困」というワードがあります。
 これもまた、日本へそうした用語を輸入する際にはもう少し慎重に言葉を選んで欲しいと思えるものでしたので、本記事の件とはまったく無関係な話ですが蛇足として。



私たちの日常を侵食する「多様性の統一」


 さて。
 「多様性の統一」なる謎ワードはともかくとして。

 どうも昨今、SNSを見ていると、無意識なのか故意なのかは不明ですが、多様な価値観を統一しようとする考えが散見され、かつそれが社会正義かのように語られる機会が多いように感じます。

 個人的には表現規制の議論においてよく見かけるのですが、ちょうど目についた例を挙げてみると、

 一部界隈でさんざん議論が交わされていたのでご記憶の方も多いかと思いますが、「ラブライブ!サンシャイン」のキャラクターの「スカートが透けて見える」「スカートの皺が不自然」という話題です。

 これを蒸し返した話ではありますが、「多様性の統一」に関連して注目したいのは、前述のポストに書かれている内容です。

この絵で「スカートに有り得ない股間の影が描かれてる」ことの異常性、絵としての違和感を感じないほど「こういうものを見慣れた脳は麻痺してる」のがめちゃくちゃ怖い
完全に脳が間違った認識を受け入れているってことだから
当たり前だけど、その同じ脳が行動も司っているんだよね・・・

https://x.com/fubyulas/status/1841270344600215979

 主観は主観ですので、別に先のイラストを見てスカートが透けているように見えようとも、どれだけ性的に見えようとも、その人の主観であり勝手です。批評も批判も自由でしょう。

 でもこのポストでは、それを「異常」であり「異常だと判断できない脳は麻痺している」「脳が間違った認識を受け入れている」と語っています。

 逆に言い換えますと、
「あのイラストを異常だと思えるならば、君は『正常』であり、『異常さが判断できる脳の持ち主』であり、『正しい認識ができている』人間である」
と、なりますね。

 違法な事象であるならばいざ知らず、単に個人ごとの主観に委ねられるべき美醜のセンス・好き嫌い・生理的な嫌悪・性癖といった、明確な尺度を設定するのが困難なものにおいて、「これは正常」「これは異常」を断定したがるのは、単なる価値観の押しつけであろうと思います。

 ぶっちゃけて言うのであれば、こういうことをいつも声高に喚く人というのは、「自分は『正常』だと呼ばれる側にいたくて必死に言い訳しているだけでしょう?」くらいに思っております。

***

 以前に私は別の記事で、多様性というものを、

「誰かが嫌な気持ちになるものをひとつずつ無くしてゆき、みんなが気分良く暮らせる社会を目指すこと」

だと勘違いしている人が世の中には非常に多い、という話をしました。

 その記事でも書きましたが、これは多様性の話ではないです。
 皆さんが大好き()な、ポリティカル・コレクトネスです。

 正確には、ポリコレをさらに曲解して自分たちの都合の良いように利用しようと考えた人たちが勝手に広めている思想です。

 本来の多様性とは、

「これまでの社会において、横並びによる同調圧力などの意識が強かったために認められにくいとされていたさまざまな価値観を認めて、それらを堂々と語ることが許される世の中を目指そう」

というものであるはずです。
 一言でいうなら、誰もが自分の価値観を捨てなくても生きていける世界です。

 ただ、世の中的にはこれはなかなか面倒な話ではあります。
 社会をまとめるなら、極論としては全ての人間が画一化された価値観を持ち、同じ指針で動いてくれるのが一番楽チンなのは間違いないでしょう。

 そこで、なるべくたくさんの意見を集めて世の中をひっくり返そうと目論む人たちは、これを利用して一計を案じます。
 「世の中における正しい考え方」をあらかじめ定義しておき、皆さんこれに倣いましょうね、これから外れた考え方を持つ人は「異常」で「脳が麻痺」していて「間違った認識をしている」人ですよ、などと喧伝します。

 いわゆる全体主義、個人的にはディストピアと呼んでいますけれども、自分が正常な側の人間であると常に誰かに保証してもらわないと不安で生きていられない人たちには、これがビックリするくらいよく効くようです。

 かくして、自らの信じる正義(というか自らの存在を保証してくれるらしい正義っぽい何か)を振りかざす人たちによって、今日もSNSでは誰かの大事な価値観が無遠慮に殴られていたりするわけです。

***

 ここで、もう一つご紹介しておきたい記事があります。
 最初に挙げた「しんぶん赤旗」と同じく、2021年の衆院選の際に行なわれたテレビ討論会の内容と、その中における日本共産党の吉良よし子・常任幹部委員の発言です。

……タレントでソフトウェアエンジニアの池澤あやかからは「ここ数日、表現の自由と児童ポルノ規制に関する話題で日本共産党が炎上していたが、主張に矛盾はないのか」との質問が出た。

吉良氏は「矛盾はない。ジェンダー政策の部分で言っているのは、子どもに対する性暴力は絶対許さないということだ。
……(中略)……
児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。

https://times.abema.tv/articles/-/10003601?page=1

 当時、この太字で表した「合意ができれば」という部分が物議を醸していました。

 ここで言われている「合意」というのは、先ほどから私が申し上げている「価値観の画一化」に他ならないわけです。
 何かについて「これはおかしいよね?」と問うた時に、そこにいる誰もが口を揃えて「おかしいです!間違っています!」と答える世の中にしよう、という話なわけです。

 個人的な感覚から言わせてもらうなら、こういう考え方を理想的だと思ってしまうことこそが「脳が麻痺してしまっている証拠であり、恐怖を感じる」ものでしかありません。

***

 多様性の実現というものを、「嫌なものを片っ端から消し去った世界」だと勘違いしている人たちが、さらにこのような理想を唱える社会というのは、冗談でも絵空事でもなく、本当にただのディストピアにしかならないように感じます。

 重ねて申し上げますが、多様性のある社会というのは、誰もが自分の価値観を諦めなくてよい社会です。

 「多様性の統一」などという謎のスローガンによって真っ白に塗り潰された社会には、誰も住みたいなどとは思わないであろうと、私は信じております。

(了)


最後までご精読いただき、誠にありがとうございました。


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