「奇跡のコース」ブレイクタイムその11
今日はこれからのレッスンの連続テーマ「身体」について、少し考えてみましょう。
身体とは何でしょう
わたしたちは、本来、すべての創造物の源ではひとつの存在でした。豊かに満ち足りた大海原です。そこから波の一雫となって、この世界にやってきました。一粒の滴は、大海原では一体ですが、この世界にいるわたしたちは、まるでひとりひとり分離しているように見えます。身体は私たちが分離していることを証明するための囲いのようなものなのです。
安全性と一体感
わたしたちは、自分がこの身体であると思い込んでいます。わたしたちの意識は身体と一体感を伴っています。体の機能である五感を通して「わたし」が感じることができます。楽しい、悲しい、嬉しい、悔しい、と「わたし」の心が感じることができます。科学的には、脳内の扁桃体が外の環境から信号を受け取って、それが自分にとって危険か安全か意味づけをして、快か不快かの感情を引き起こすといわれています。
自分のこの「身体」が「わたし」だと思うのも当然かもしれません。
わたしがこの身体なら、この身体を大事にして守ればよいのですから、よりどころとして安全な考え方だといえるのでしょうか。
身体の矛盾
どんなに大切にしても、メンテナンスをしても身体は変化してやがて朽ちていきます。では、身体を通して「わたし」が感じたのはどの部分だったのでしょうか。そもそも、身体が大切だと思った「わたし」はどこにいるのでしょう。身体=「わたし」ではないことがうっすらとわかってきます。
身体の声をきく
「身体の声をききましょう。」聞いたことがあるフレーズです。眠い、空腹だ、暑い、痛い・・身体の声に耳をすませたら、たくさんの欲求・要求が聞こえてきます。お腹がすいたから食べる。眠いから寝る。これらは、身体に力を与えることだと「奇跡のコース」では述べられています。
だからといって、眠くても、寝ない。お腹が空いてもガマンする。このように身体の声に逆らうこともまた、身体にパワーを与えるのと同じことだと述べています。では、身体をどのように扱うことが望ましいのでしょうか。
身体の役割
「奇跡のコース」では、身体は、ホーリースピリットとともに心を見るためで、それ以外には意味はないものと捉えています。
身体に価値を与えることや、見下すこと、敬うことは身体へのエゴの投影でしかありません。
例えば、美しさやスタイルの良さ、筋力の強さ、肢体不自由かどうか、病気や怪我か、年齢以上に健康的だとか、病気というほどでもない肌トラブルや鼻炎どの症状など、日常的に身体に対して、ダメなこと、すばらしいとジャッジしているすべてのことです。
投影とは、自分の心にある部分を外側に見ることです。
すばらしいと見るなら自分はそれとは違っている、分離した存在だとみているし、また見下すなら自分のなかの劣っている、足りないという罪悪感を映しているのです。
わたしたちは心の中の罪悪感や欠乏感を見るのがイヤで、その代わりにお腹がすいた、疲れた、と身体にいわせて心を見ることをサボっているのです。
まとめ
身体は幻想だといわれても、実際に痛みがあったり、苦しくて辛いことが実際にあります。骨を折って怪我している人に「骨は折れてない。」というわけではありません。それをどのようにみて、捉えて、自分の心を見るかということが大切なのです。怪我したところは治療しましょう。病気なら薬をのみましょう。ただ、身体を治すことのみに執着してしまうのではなく、身体だけでなくホーリースピリットとともに心を見ることも大切なのです。
わたしたちの病気や怪我、老いなど身体に対する恐れが幻想だというのです。心と向き合い癒すと、同時に身体も癒されていきます。
ここまで、お付き合いいただきありがとうございます♡