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『愛について アイデンティティと欲望の政治学』竹村和子著(岩波書店) 序「『愛』について『語る』ということ」レジュメ

わたしたちは集合的な物語(言語や法)に基づいて、個別の物語を語っている。
物語は「比喩」である。
個々の様々な生殖に結びつかない、行為や感情を、生殖を中心に比喩化=物語化したものが、女の性欲望/男の性欲望。その物語にのっとって、身体化させてしまう。
具体的な感情・行為≠規範的で本質的な事実(この二項はずれている)
自然なずれか。
ずれの境界を、時代・文化が恣意的に決定する。普遍的なものを普遍的とみなすことは、個別の物語が、どこにでもある物語として立ち上がる。
集合的な物語の反復、または個別の物語のなかで経験される「ずれ」は、集合的な物語が「比喩」であることを証明する。(ex.女や男「として」感じる≠女や男「のように」感じる、という「ずれ」)
「ずれ」から生じる事実性の解体はそこで終わりではない。別の事実性の解体へ。

第一章

[ヘテロ]セクシズムの系譜」に書かれていること
[ヘテロ]セクシズムが「資本主義社会に要請・強化されていったかの経緯。
[ヘテロ]セクシズム=異性愛主義と性差別を兼ね備えた「正しいセクシュアリティ」の制度 その真逆の負の意味付けをされた女の同性愛は沈黙を強いてきた。
近代の性制度が、中産階級の階級的性制度を捏造するための身体解釈や性規範に基づくならば、性規範は他の階級の問題と切り離せない(人種や民族など)。
ヘテロセクシズムという性規範は他者を生産し、搾取。女の同性愛は巧妙に抑圧、利用されてきた。
第一章は女の同性愛に焦点をあてる。
注1 性言説のなかで流通している「本質性」や「普遍性」の堆積の結果の虚構を考察
注2 男女に二分されたセクシュアリティと性愛を中心におくエロスの解釈が多様な人間関係を自己限定している

第二章と第三章

わたしたちの心的構造や自己形成についてどのような理解が前提としておかれるか。
フロイトやラカンの理論と心的様態を説明している抑圧的な言説は共振している。
フロイト、ラカンがセクシズムを傍証し、温存する形で分節化しようとした理論家。

第二章

愛について――エロスの不可能性
他者との関係性に本質主義が跋扈しているか、について書かれた章。
フロイトは自己形成に大きくかかわる事故と対象の関係をリビドーと名付けた。フロイトの理論はペニスの優位性を前提。ラカンはファルスを持ち出した。
人間の「自然な性」は比喩であり、「動物の交尾」から切断されたところに人間のセクシュアリティがそんざいしている

比喩にすぎないものを事実と詐称するため「可能なエロス」(正常な愛)と「不可能なエロス」(倒錯的な愛)という序列化が行われる。
しかし実はすべてのエロスは「不可能なエロス」の様態にすぎない。
「正常なエロス」は「幻」としてわたしたちを呪縛している。
「愛」の物語にどのように[ヘテロ]セクシストな偏向が加えられているかの考察。

第三章

あなたを忘れない――性の制度の脱-生産
母と娘の関係に焦点を当てた。バトラーは母娘の一次関係を解決するメランコリー→女児を「母」として同一化するメカニズム 
幾重にも沈黙をさせられている母娘の関係性は性制度を(再)生産する装置として機能
愛は自我形成と対象形成が同時に進行性につけた名称
近親姦の禁止・同性愛の禁止を経験しなくてはいけない女児は、「母は私を愛したことがなかった」と思わなければ、言語への参入はない。
「母」のふたつの意味 ①生殖を行う性器的存在 ②娘にとっては非性器的存在
現代において友人的な母 娘への心配り(非=性器的な対象関係)という隠れ蓑を使って、制度が強制した女性蔑視を反復する。
女を娘から母に不可逆的に移行させることこそ、規範的な次代再生産を求める[ヘテロ]セクシズムを稼働させているもの。

第四章

アイデンティティの倫理――差異と平等の政治的パラドックス
「アイデンティティの政治」がもたらす差異と平等の政治的パラドックスに自縄自縛されている状態から脱する可能性。
「政治」を人と人のあいだの応答=責任(間主体てきなもの)とみなすとき、「倫理」は自己の中の応答=責任(内主体的なもの)。
本章は自由と他者性をめぐるチャールズ・テイラーとウィリアム・コノリーのフーコー読解の応酬から始め、フーコーが最晩年に問いかけた「現在性」がどのように政治化できるか。

アイデンティティは自己承認ではなく、自己否認によって成立している。
性差別主義者やホモフォビア・人種差別主義者は、女性性やホモエロティシズム、有色性と全く無縁なひとではない。

わたしは何かという問いと無縁に生きることはできない。
〈わたし〉は何らかの名称を背負って生きている。
アイデンティティ(名づけ)を成立させている決定性のロジックの限界に、意識、無意識に関わらず気づくことになる。決定(名づけ)は、不決定性(名づけの不可能性)に晒され、それを引き寄せること。

第五章

〈普遍〉ではなく、〈正義〉を――翻訳の残余が求めるもの
アイデンティティの倫理は、倫理という内主体な行為であるがゆえに、日常性を看過した概念?
→アイデンティティの中断は、アイデンティティの分節化がなされるとき(=名づけが意味を持つ状況において)、常に発生している事柄であると考える。
アイデンティティの中断、語りえぬものとの邂逅を、どのように生きられうる領域にとどめるかという問題。

わたしたちは――主体であれ、構造的他者であれ――言語体系に入ること(社会システムへの参与)によって、〈わたし〉なるものを獲得する。
終章は倫理の言語化=倫理の政治化、倫理の政治的翻訳。

「翻訳」とは内主体的な応答=責任を、外主体的な応答=責任に「変移させる」こと。翻訳とはいったい何をわたしたちにもたらすか。
2つの言語が文法を異にしており、一方の言語が支配的であるとき、もう一方の言語は、どのようにそれじたいを表出しすればよいか?
このアポリアを指摘したのが、スピヴァクの「サバルタンは語ることができるのか」
「語りえぬもの」の問題のなかに「聞きえぬもの」の問題を包含させた。

語る者と聞く者の横断不可能性を強調すること→サバルタンをどのよな支配言説にも「汚染」されない純粋な他者として再配置してしまうこと。

純粋な他者は存在しているのだろうか。
「女」が「女」であるのは、すでにその人たちを「女」に位置付ける言語の力学のなかに、その人たちが存在しているからである。
問題にすべきことは、語る者と聞く者の入れ子構造の中にこそ、支配言語のヘゲモニーが介入していること。
聞きえない声を語る、語りえない声を聞くという〈正義への問いかけ〉は、聞くことを通じて語る・語ることを通じて聞くという翻訳のパフォーマティビティによってのみ可能。

語りえぬものを聞く・聞きえぬものを語ろうとする発話は、表象作用の失敗とみなされる。通常の使用言語からたやすく放逐される。
言語システムは普遍性を標榜する。しかし発話は普遍性を標榜する言語が内包している制御不な過剰さをあらわにする。
既存の源穂の偏向を露呈させる〈正義への訴えかけ〉は、「非正当性」として表出される。

〈正義への訴えかけ〉は、言語のなかの不整合が、語る者にさえ制御できないかたちをとってあふれだす、狂気の声。
新しい政治の課題は、〈正義への訴えかけ〉が吐き出す狂気の声を汲み取って、抑圧的ではないなにかに、収束させ、狂気を政治の言語に翻訳し、その挫折から目を背けないこと。
新たな言語の普遍性を志向するだけでなく、言語の狂気に着目し続けること。

本書について

セクシュアリティと直接かかわりのないように見える言語の問題に踏み込んでいることに戸惑う読者もいるかもしれない。
現在のセクシュアリティにまつわる問題が、〈言語〉に深く関与している。
その現象的な課題を、分析するだけではすまされず、分析それ自体に土台を与えている認識構造を俎上に載せること。

セクシュアリティは、きわめて公的で政治的な事柄。
所与の言語が与えている名称や意味であり、〈わたし〉がその言語を内面化・身体化している。

「愛」は恋愛や友情や連帯感や近親感情だけではなく、失望や侮辱や怒りや敵意や恐怖、そしてそれらゆえの肯定的・否定的な無関心や無理解までも含む。またそのような愛の関係を生み出し、裏書きしているのは、制度であり、慣行であり、社会通念である。

本書は過去4年ほどの間に間欠的に『思想』誌で掲載された5つの論文からなる。
書くという行為は、わたし自身を解体していく道のり。恐ろしくて身がすくむ思いがしたこともあった。

「愛」について、そして「語りえぬもに」をめぐる政治について語ろうとする試みもまた、語りの時間の未定性をその限界とも強みともするもの。
2001年9月におこった同時多発テロが急きながらも、書くことをためらわせている。
狂気はつねに「正気」の人には恐怖の暴力として到来する。さらに言えば、声を持たぬ者と範疇化された人々が、その声のぜう望的な力は、相手に向けられると同時に、自分自身へも向き返す、諸刃の剣となる。
では、狂気をどのように考えればいいか。
〈わたし〉は、声の応答/責任をそれに伴う狂気の力をどう考えればいいか。
ますます困難な問題に出会い続けていった。
本をかたちにするるということは、一種の暴力を志向に働かせることかもしれない。
可能性と危険性が表裏一体となって混在している時間制のなかにわたしたちの生があることを、驚きと痛みと、また諦観と希望がないまぜになった気持ちを経験した事柄。

レジュメ作成・柳ヶ瀬舞

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