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『愛について アイデンティティと欲望の政治学』竹村和子著(岩波書店) 第3章 あなたを忘れない──性の制度の脱‐再生産 レジュメ
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要約
ペニスから乳房へ
精神分析においても、かつてはフェミニズムにおいても、母‐娘関係はずっと論じられてこず、近代家族の物語の消失点を成してきた
しかし/だからこそ、母‐娘関係は性の制度の再生産の現場になっており、その「脱‐再生産」のためにはぜひとも母‐娘関係の考察が必要である
メラニー・クラインの「対象関係理論」は、幼児の自己同一化における特権的なシニフィアンをペニスから乳房へと移動させた
その「対象関係理論」もまたフロイト同様に覇権的な性の力学に取り込まれてしまうものではあるが、次の2つの主張によって母‐娘関係の洞察に新たな地平を開いた
①母と自己をそれぞれ異なる全体として対象化するようになったときに、子が母に対して持つ両価的な感情(「愛の喪失」「憎しみ」)がある
②それは大人になっても継続する(「態勢」)
省略される愛の系譜
ポスト・クライン学派のフェアベーンは、リビドーの対象は生得的なものではなく、自我構築のために探し当てられた経験的なものでしかない(「リビドーは本来的に対象希求的ものである」)と述べた
しかし、フェアベーンもまた生物学的決定論に牽引されており、乳房―口唇が生得的に後のすべての対象関係の基盤になっているとみなしてしまった
この議論は女を母という機能に閉じ込めてしまう性別分化を前提としている一方で、子を性中立的にheとして扱っており娘という存在が想定されていない
よって、このような精神分析においても、一般理解においても、母‐娘関係は十分に語られてこなかった
母の抵抗と断念
対象関係理論に影響されたクリステヴァは、自我形成過程において、母ではなく父が最初の自我理想(=「想像的な父」)の役割を果たすと主張した
このことによって、母は過度に蔑視/理想化され、母子の間の出産による最初の対象関係は隠蔽されてしまう
この隠蔽は息子と娘では異なる形で表れる
①主体として象徴界に参入する異性の息子に対して、母は理想化された存在であろうとする
②「男」の補完物としてしか象徴界に参入できない同性の娘に対して、母は軽視するようなふるまいをする
娘のメランコリー
フロイトの理論は、男児と母の間の性器的な愛の交換のみを禁止されるべき近親姦として想定することによって、愛を〔ヘテロ〕セクシストなものに矮小化している
〔ヘテロ〕セクシストな愛とは自他や心身を明確に区別するものであり、これに抗うためには、愛の矮小化の過程と帰結について細密に検討する必要がある
①〔ヘテロ〕セクシストな愛に対して、イリガライは女の「触れ合う二つの唇」を称揚することで抗った
②しかし、これは母性や女性性を原初の混沌へと回帰することで過度に理想化するクリステヴァと同じ陥穽におちている
男児と異なり、性対象(母)も性目標(女)も移動しなければならない女児はより根源的な喪失(分離)を解決しようとしてメランコリーに陥る(=母を愛したことを忘れる)
自己同一化が異性愛の核家族の再生産の語彙で説明されるかぎり、女は「娘」か「母」であるしかない
①「母」にならない女はいつまでも性の同一化を果たせない未熟な「娘」とみなされる
②一方、べつの異性愛の核家族に参入して「母」となった女は、性器的な愛(妊娠、出産)と非-性器的な愛(母の愛というイデオロギー)に引き裂かれ、もっとも深いメランコリーに陥る
母殺しのメタファー
自己同一化の際の母の殺害(母からの分離)をめぐる非対称性が、男女の自律性やセクシュアリティの非対称性を決定する
①性対象を母と同じ性に求める男児は、母への愛を殺さずに母殺しができる
②母と同一化する女児は、母への愛を殺すため母殺しができずに、自らを殺す
これを解体するには、母‐娘関係を攪乱しながら経験していくことが必要である
①チョドロウは男女の平等な親業による解体を主張したが、これはジェンダー/セクシュアル・アイデンティティを解体するものではなかった
②イリガライはエクリチュールフェミニンによる解体を主張したが、これも未来の物語のなかに母を封印してしまい、現実の母に対する否定になってしまう
女性蔑視の連鎖を断ち切って
たとえ現実の性別役割分業が崩壊しはじめていても、ドメスティック・イデオロギー(=家庭における性別役割分業の理念)は依然として作用し、セクシュアリティの二分法を再生産しつづけている
ドメスティック・イデオロギー再生産の舞台は、フェミニズムの成果を経た現代の母‐娘関係である
①現代の母は、娘をジェンダーの次元では自立させるものの、セクシュアリティの次元では自立させない
②現代の娘は、母のその過干渉に応えて相互依存した場合でも、またあるいは拒否して反面教師的に自立した場合でも、いずれにせよ女性蔑視を再生産してしまう
ドメスティック・イデオロギーが浸透している社会においては、すべての個人が普遍的な「人間主体」ではなく「父」「母」として主体化される精神分析の物語が覇権的だ
そのなかで、母/娘という二つの焦点をもつ女による母への呼びかけこそオルタナティブな母‐娘関係を再生産して、その覇権的な物語を「脱‐再生産」することができるのではないか
記憶が忘却から立ち現れるとき
母/娘という二つの焦点をもつ女による母への呼びかけの実践
論点
①P208「娘をジェンダーの次元で自立させ、セクシュアリティの次元で自立させない母」
フェミニズムの成果だけでなくLGBTQ運動の成果もここに現れつつある(例:母がクィアな娘を受け入れることがある)現代においても、この構造は残っているように思うが、それはどのようなものか?
②P217「おそらく、(男の)精神性と相補的な関係のなかで二義的な価値に置かれている(女の)身体性という記号の意味を攪乱して、みずからの身体の可能性を押し広げるものは、母の身体であると同時に、母の身体を失った母/娘──二つの焦点をもつわたし──が発する呼びかけの声ではないだろうか」
この母‐娘関係における理論を踏まえた実践とはどのようなものが可能なのか? また、どのくらい現実を変える可能性をもつのか? (例:母娘間の近親相姦的感情を描いた物語を書くことが、ただちに覇権的な物語の攪乱につながるのか?)
③全体を通して(前の章も含めて)
竹村がロマンティック/セクシュアルの区別をしていないことが指摘できるが、一方でそれは竹村が心身二元論を批判していることと関連しているのかもしれない(ロマンティック/セクシュアルの区別は心身の区別と同一視されやすいため)。この関連をどう捉えるべきか?