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『女が国家を裏切るとき』 第二部レジュメ

要約

第Ⅱ部 女が〈和歌〉を詠むとき――樋口一葉と日清戦争

第4章 〈女性作家〉と〈国民〉の交差するところ――一葉日記を読む
一葉日記にみられる新聞報道への言及について、「国民」「市井の一員」「女子」という主体形成は、それぞれが別個に階梯的になされたと指摘されてきたが、実際にはモザイクのようにそれぞれが連関しあったところでなされている。
さらにその主体形成と〈文章〉がいかに関わるかという点においては、一葉日記に記されている和歌において、「国民」としての国家に対する慷慨の念と和歌の革新とが接続されている点が注目される。そこには私的な領域である日記において、伝統的な枕詞「敷島の」(やまとにかかる)が表象の規制として働いているのだ。また、一葉日記では、「国家」に言及する際に、「女子」であることが同時に意識されるという傾向が見られる。
一般的に、女性にふさわしい文章の習得は、同時にジェンダー規範の習得をも意味していた。そのなかで、とりわけ女性に要求されたのは「和歌」であった。和歌は皇統とともに栄えてきたともいわれている。「女性」は、国家・文章・和歌が「女性性」という価値づけによって発現する場となったのである。


第5章 日清戦争を詠むこと
 明治の和歌は、歌う主体の意識とは全く別のレベルにおいて、自動的に〈帝国〉と接続してしまう機能を備えていた。一葉の歌もまたその自動性と無縁ではない。
とりわけ題詠という方法は顕著である。正式に和歌を学ぶと、ひっきりなしに題詠をするという形になる。明治時代には、ことに中・上流階級の女性たちにとって、そのように和歌を学ぶことは教養として称揚されている。和歌の本質に女性性が見出され、ゆえにそれを女性が担うべきとされていたが、和歌の習得が自動的に〈国家〉と結びつくものであることを考えると、和歌によって女性が国民化されただけでなく、国民国家の形成と確立において女性が一定の役割を果たすことになったことがわかる。
これが「日清戦争」が題となったとき、男性的な題でありながらも、一方で伝統的な題と混合されたときに、他方で女性性を帯びた情緒が自動的に呼び出される。とりわけ戦地にある夫(あるいは肉親)を思う女性の歌となると、より顕著にその男性性と女性性の混交が現れる。


第6章 凱旋する文明国――一葉・鏡花が見たもの
 明治天皇の凱旋パレードにおいて、一葉は『源氏物語』の加茂の祭りを連想して、さらに百年後の人々がそれに古雅を見出すであろうことを想像している。これは、一葉の実際の意図に関わらず、天皇の時間の永続性を想起させるものとなっている。しかし、その凱旋イベントからは、芸娼妓たちが排除されていた。
 一方、泉鏡花『海城発電』においては、清国人女性の凌辱される身体の表象が、はからずも帝国日本の植民地への欲望と照応し、さらに日清・日露戦争を契機として、セクシュアリティとしての女性の身体が、一方では〈国民〉から疎外されつつ、同時に〈国家〉によって階層化されていくことを明かしている。

論点
●〈文章〉というものから自動的に引き出される国家への従属/反抗が描かれているが、そうなると反抗すらも権力の一部ではないのか? 真の意味で権力構造を転倒させるような反抗はいかに生まれうるのか? 〈文章〉の自動性を破るものとは?
● 和歌における男性性と女性性が論じられているが、日清戦争を男性的、伝統的な題を女性的とするのはやや短絡的ではないか? さらに押し進めると、和歌におけるクィア性(男性性と女性性の対立を超えたもの)のようなものは取り出せないか?

レジュメ作成 川瀬みちる

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