見出し画像

『愛について アイデンティティと欲望の政治学』第4章 アイデンティティの倫理――差異と平等の政治的パラドックスのなかで

要約

言説権力と抵抗

・ミシェル・フーコーは近代の「支配/服従」の権力機構において、権力は主体に対してはたらきかけるものではなく、主体をとおしてはたらきかけるものだと主張。
・チャールズ・テイラーは〈主体化=隷属化〉の閉鎖的な循環から離脱しつつ、一元的な価値によって抑圧されない、差異を包含する共同体を想定。
・カミングアウトを肯定的に捉えるテイラーの論。
個人や集団独自のアイデンティティ他のすべての人からの区別であるにもかかわらず、その区分が同化されてきたために、異議申し立てとして、アイデンティティの政治は真正さの理念に基づいて声をあげる。
・アイデンティティの政治はアイデンティティの存続だけではなく、価値を認めることを要請。
・テイラーの論の弱点
①逆説的にアイデンティティの同質化がおこる。
②アイデンティティの主張が「自閉」していくことの危険性
③既存の〈言語〉のなかに再び囲い込まれる危険性
・アイデンティティの中にひそむ「他者性」の可能性に注目したコノリーの論
制度に同一化するアイデンティティを追求することこそ、「規律的な社会システム」を現代生活の新しい局面に持ち込む危険な方策であると警告。
・「権力関係は、無数の抵抗の地点に依存して初めて存在する」フーコー。では抵抗とはどのようなものか。

抵抗の複数性・個別性・多様性をフーコーは主張する。
抵抗は権力の中に描きこまれている。大事なのは権力には還元できない抵抗点。
・「個人の統一性を横断する抵抗点」は個人を切り裂く。還元不可能な領域は「解放」の契機である(還元不可能とは〈言語〉で説明きないこと)。また還元不可能は実体化することのない「他者性」だ。
・「統一的な主体」とは偏在的な言説によって作り上げられたもの。
・言説権力が行使させられる場として「告白」の伝統をフーコーは挙げる。
支配権力は聞き手側にある。

集団的アイデンティティと承認/再配分の政治

・テイラーはアイデンティティの政治は、アイデンティティの「承認」である、また「親密さの領域」と「公的領域」の2つに分けられると主張。
・フレイザーはテイラーの「承認の政治」を受け継ぎつつ、テイラーの価値基準変容に注意を向ける。

承認の政治=差異化 再配分=脱差異化
フレイザーは経済的な再配分と文化的な承認の双方に区分をもうける。
・フレイザーの特筆すべきところは「政治」と「経済」を積極的に結び付けたこと。その結果、左翼の統一戦線を作り出そうとしたこと。→「社会主義フェミニズムの社会経済的な戦略を脱構築的なフェミニズムの文化戦略につなげた」

脱構築的なフェミニズムの「最終目標」は「ジェンダーの二分法がなくなり、相互交差的な歳のネットワークが出現する文化」と社会主義フェミニズムが求める再配分と矛盾しない。
しかし不安定であるはずのアイデンティティが、どのように「平等」な承認を得て、「公正な」経済配分を獲得していけばいいかは書かれていない。
・フレイザーのヤングへの反論 差異には4つの可能性があると主張。
➀人道主義
②文化的ナショナリズム
③差異の政治
④➀~③の差異を判断し、オルタナティヴな規範や実践や解釈の相対的な価値について規範的な判断をする能力を認める
フレイザーの主張ははそれまで同一視されていた集団に、人種や階級やセクシュアリティといった別の差異化軸が導入される(ex.フェミニズム・有色人種・レズビアンのなかの差異)。
・バトラーは「カテゴリーは本質的に不完全なものだと仮定する場合によってのみ、そのカテゴリーはさまざまな意味が競合する永久に使用可能なばとして機能さることができる」
・しかし、フレイザーはアイデンティティを常に差異化の過程性ではなく。「結果」としている。
・フレイザーは「差異の曖昧化」を至上命令としながらも、「規範的な判断能力を備えた主体性」に立ち戻ってしまう。

個人的アイデンティティと私的領域

・18世紀松に「個人的アイデンティティ」の新しい理解が出現して、それとともに「承認」の重要性が増してくるようになったと、テイラーは分析している。
・対話的、過程的、変容的なアイデンティティの形成を説明するとき、テイラーは「大切な他者」と表現し、それが「親密さのレベル」でとくに重要なものであることを強調。→「愛情関係が、アイデンティティの内面化を形成するときの坩堝(るつぼ)になっている」ためだと説明。
・アイデンティティの形成の「坩堝」であり、「鋳型」ともなっているのではないか。
・「他者との相互関係」によって獲得される「言語」をテイラーは流動的・変容するもの。
・竹村「大切な他者」から(不)承認されるときに使われる言語は、社会的な権力関係から切り離されていない。
・私的領域でテイラーが言うような「対話」が成立するのか?
・アイデンティティ組成において私的領域と公的領域を分けた思想家がハンナ・アーレント。
・個々の人間の「多様さと特異点」は私的領域から排除され、「政治的なもの」として捉えるとアーレントは主張。さらに「社会的なもの」と「政治的なもの」は別物で、「社会的なもの」は私的領域に属する。つまり公的領域の私的領域化である。
・「愛は公的に示された瞬間に殺され、あるいは消滅してしまう」(アーレント)という、愛の関係(私的領域)は非=言説性や内密性のイデオロギーに回収されてしまう。
・テイラーの「対話」の背景にある個人的アイデンティティが「対話」によってパフォーマティブに形成される場が、不可視の集団的利益に包含されている。
・しかし「私的領域」をアーレントのように単一性がはびこる領域にしない。私的領域は、公的領域を社会領域化したものとして読む。
・社会的(集団的)アイデンティティは、個人的アイデンティティとして表明されるものでもある。
・アーレントは「言葉をともなう」活動と「獣的な身体的外観」で示される行為を区別しようとする。
・しかし私的領域が公的領域の社会領域化であるかぎり、身体的アイデンティティは文化、すなわち言語によって意味が与えられている。
・政治的自由と現実の政治にまみれた身体的アイデンティティとは切り離せない。

非-在としてのアイデンティティ

・アイデンティティの形成において私的領域/公的領域と不可分であるの、アイデンティティがはじめより承認と否認によって形づくられるからだ。
・自我形成における承認/否認の問題にいち早く着目したのが精神分析学者。現代ではフェミニズム主体の問題に各自の主張と応答を記録した『フェミニズム議論』(寄稿者にベンハビブ、バトラー、フレイザー、そしてコーネル)。
・フロイト自我形成に「取り入れ」と「投影」の2つの作用をみた。
→良い対象を自我の内部に「取り入れ」、悪い対象を自我の外部に「投影」。
・「取り入れ」と「投影」の作用は自我が立ち上がりはじめる一時過程からはじまり、生涯を通じてなされる。
→良い対象は「承認」され内部化、悪い対象は「否認」され外部化。
・アイデンティティは自己承認と自己否認によって成立している(ex.白人は黒人によって、男は女によって、異性愛者は同性愛者によって)。
・自己の外部に棄却したものは、否定(嫌悪・恐怖)することによって自己に再び回帰する。したがって女性蔑視や同性愛嫌悪や人種差別は嫌悪や恐怖という防衛手段をつかって「認知」すること。またそれらは非常に親しいものであるから、排除しなければならないもの。
・女、同性愛者。有色人は外部に放擲すべきもにおを内部にとどめておくことによって嫌悪や恐怖を自分自身に振り向けていく(ex.「低い自己評価」「劣等的自画像の内面化」)。
・平等な承認の政治は、自己と他者を分かつ切断戦はますます強固に切断される。→「外部」を嫌悪・恐怖していた「内部」は「外部」を「承認された他者として遠くに放逐(ex.「自己決定権」という「自由」を他者に与える)
・「外部」は自己とは完全に別個の自律性を備えた「他者」になり、搾取するようになる。個人や社会の内部にひそむ嫌悪や恐怖や痛みを、隠ぺいする。
・他者の承認という政治=自己形成における取り入れと投影のさいに、どのような〈言語〉が介在しているかが問題
・取り入れは、すでに言語されているもの、〈象徴的〉なものである。
・投影は自我の内部で説明できず、納得できないものを棄却すること、〈想像的なもの〉。他のひとかものに形象化すること。想像的なものは、投影によって象徴的に対象化される。
・自己の内部の不気味なものは、自己を語るのと同じ言語によって、「外部」をかたることができる(ex.性差別主義者は女性性を知っている人間、自己の内部にあることを知っている人間)。
・非-在としてのアイデンティティはどのように差異/平等に関与できるのか?

〈同一性の中断〉の倫理

・フーコー「自由は、権力の行使の条件としてあらわれる」。権力と自由の闘争について、そのふたつが相互に駆り立て合いつつ、格闘しあう関係を語っている。
・「自己の実践」が「権力の転換」の契機になると晩年のフーコーは考えた。
・自己の実践とは「自らの行動を問いかけ、見張り、形を与え、そして自らを倫理的主体として形成する」営為。
・「つねなる他者、非-我」に自己に働きかけ、自己を重ね合わせること。
・言説権力との闘争を通して言語によって形成される主体は、言語の中に堆積した習慣と言語から排除された過去を背負う。
・倫理的主体は、首尾一貫性や完全性とは無縁。倫理的な問いかけは、自己への行為であり、運動であり、運動である。自己のアイデンティティは常に自己とは同一ではない。
・「知っている事柄」は「決定」される必要がない。アクチュアルの決定は手続き的にどのようんあ予示も前もってなされていない。
・決定は、一義的には名前を与えること。正当性を与える「原因」は常にすでに何か別物の結果である。→不決定性は名づけが過剰に存在していること。
・アイデンティティの脱構築はアイデンティティの過剰さに対峙すること。
・孤独こそ自己が他者に働きかけるための唯一最良の方法だ。
・「浮遊するアイデンティティ」はアイデンティティの中断であり、継続的だ。自己同一性の中断の不断の実践こそがアイデンティティの政治的実践だ。
・「アイデンティティの中断」という倫理的実践は政治的な実践にどのように再-結合していくか。
・「ヘゲモニー的な分節化」
・コノリーは「アイデンティティ/差異」のジレンマを克服する手段として「アゴーン的な民主主義」
→統一的なアイデンティティを持つ「集団的差異」ではなく、「連続的差異」のなかで自己を他者として、名前のない誰かとして経験すること。
・「アゴーン的な民主主義」はアイデンティティの変容だけではなく、アクチュアルなアイデンティティの中断がおこなわれなくはいけない。
・アイデンティティの中断は、合意の保留、合意の変質、ときに合意の瓦解を生み出す。
・アイデンティティの分節化が切断をともなうならば、それは集合と同時に離散を、親密さと同時に困惑や敵意を生産する。

論点

しかし注意すべきことは、そういった「統一的主体」という事実性が実は言説によって構築されたものであるということだ

p.240

☆「統一的な主体」とりリベラリズムにおける「自律した主体」と似てないか。

全体を通して

☆ハンナ・アーレントの読解は竹村の読み方で十分なのか?
☆アイデンティティの中断はあり続けることができるのか?

                      レジュメ作成:柳ヶ瀬舞

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?