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『愛について アイデンティティと欲望の政治学』竹村和子著(岩波書店) 第1章 〔ヘテロ〕セクシズムの系譜──近代社会とセクシュアリティ レジュメ

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要約

なぜセクシュアリティなのか

■セクシュアリティは〔ヘテロ〕セクシズムを捏造・傍証するものである一方、それを再定義することが〔ヘテロ〕セクシズムの批判にもなる

  •  ここで近代の性抑圧を〔ヘテロ〕セクシズムと呼ぶ理由は、①性差別*(セクシズム)と②異性愛主義(ヘテロセクシズム)が、近代の性抑圧を構成する両輪であるため
    *男女差別のこと

①性差別(セクシズム):性差別のみに性抑圧の理由を求めると、男女二元論に回帰してしまう(例:マルクス主義フェミニズム・エクリチュールやフェミニン系フェミニズム)
②同性愛差別(ヘテロセクシズム):同性愛差別も性差別を前提とし、さらにそれを促進する装置として編成されたもの(例:男のホモソーシャリティは同性愛嫌悪と女性嫌悪によって構成される)

  •  セクシュアリティとは、〔ヘテロ〕セクシズムにおける本質主義的な男女二元論を捏造するために利用される、エロスにまつわる〈フィクション〉

  •  その〈フィクション〉とは、「正しい」異性愛/「まちがった」同性愛という二元論ではなく、「正しいセクシュアリティ」(=生殖を目的とする単婚)という一元論

・「まちがった」異性愛:生殖が目的ではないため、同性愛のみならず異性愛においても家庭外の性行為は「正しくない」性行為とされる
・「まちがった」同性愛: 終身的な単婚の言説は、男の同性愛と女の同性愛の分断にも貢献する

■そのため、〔ヘテロ〕セクシズムの批判が目指すべきは、エロスの言説がセックスやジェンダーと結びつかず、それにセクシュアリティという言葉を使うのが適切ではないというところまで再定義された状態なのではないか

性差別と女の友情

■19世紀中葉のアメリカ合衆国において、女同士の愛は脱性化され不可視化される形で、社会的に容認されていた
■その背景には、性差別と階級/人種差別によって構成される白人中産階級の性倫理があった

  • 産業資本主義の勃興のなかで、女性は受動的で性欲望が希薄だという性差別が定着し、女同士の関係には性的含意はないとされた

  • 一方で、労働者階級や白人以外の人種の女は性的な存在とみなされたため、女同士の性愛の危険性があるとみなされた

消費社会の勃興とレズビアンの性愛化

■ 20世紀初頭のアメリカ合衆国において、女同士の愛は性愛化していった

  • 女同士の愛の性愛化の肯定的側面:女同士の愛のエロスを可視化するのに貢献し、酒場や文学表象によるレズビアンの自己表現が模索されはじめた

  • 女同士の愛の性愛化の否定的側面:女同士の愛の定義において性愛が特権化したことにより、かえって〔ヘテロ〕セクシズム(①性差別+②異性愛主義)の強化につながった

①性差別:男の覗き見的な視線によって女同士の愛が色情的に植民地化されていく
②異性愛主義:生殖=性器の中心的な「正しいセクシュアリティ」規範によって、同性愛に性愛を条件づけることは同性愛を構造上否定することにつながってしまう

レズビアンは男女の階級闘争を超えられるか

■性差別の解消のために、女というカテゴリーをもとに男女の平等を主張する理論は、本質主義的な男女二元論か、普遍的な男中心の一元論に回帰してしまう
■〔ヘテロ〕セクシズムを転覆するためには、女ではなくレズビアンというカテゴリーの歴史的検討を通して、セクシュアリティによって構造化されず、〈個〉の自律性を攪乱するようなエロスを主張していくべきだ

  • レズビアンの男役/女役の役割演技を含む女の同性愛は、80年代後半以降男女二元論のステレオタイプを相対化・解体するものと考えられたが、近年では後期資本主義の深層化する抑圧システムのなかに再-取り込みされようとしている

  • 女の同性愛を普遍的で純粋な実体としてその解放を求めることは、かえってその再-取り込みを強化してしまう

  • むしろ個人であることと〈個〉の自律性を攪乱するエロスを追求することとの間の二律背反を歴史的に体現する女の同性愛は、〔ヘテロ〕セクシズムという歴史的文脈のなかに足場をもつ具体的な現象としてとらえられてはじめて、〔ヘテロ〕セクシズムを転覆する可能性をもつ

論点

①「性差別の解消のために男女の平等を主張する理論は、男女のカテゴリーのさらなる固定化か、普遍的な〈人間〉という男中心のフィクションに頼るかのどちらかに回帰することになる。……モニク・ウィテッグが性差別に対する異議申し立てとして、女とうカテゴリーではなくレズビアンというカテゴリーを持ち出したことは意義深い」(P81)

カテゴリーは主体とは異なる。運動の主体をどうするかの議論が、論じるカテゴリーをどうするかの議論にすり替わっていないか? それならば運動の主体はどう考えればよいか? レズビアンだけではなく、ヘテロ女性は運動の主体ではないのか?

②「レズビアンを男女の二分法にまったく汚染されないう無垢のカテゴリーと考えることはできない」(P82)

このときパンセクシュアルやノンバイナリーをどう議論に取り入れるべきか?

③「セクシュアリティにまつわる差別に異議を申し立てるには、セクシュアリティ(性欲望、性実践)を含みつつも、それによって構造化されないエロス──〈個〉を形作ってきた様々な境界を横断するエロス──を主張すべきだろう」(P93)

(ア)社会的に構築されたセクシュアリティに対して、自然で本質的なエロスというものを措定することはできるのか(バトラーの「セックスは常に既にジェンダーである」という議論で指摘されたことから類推すると、そのようなエロスは措定できないだろう)? またそれはどのようなものなのか?

(イ)もしそのようなエロスの認識が実現されたとしても、(セクシュアリティとは別の)なんらかの規範で構造化されたエロスの言説によって、新たな抑圧が生まれるだけではないだろうか? 少なくとも規範を転覆するというよりは攪乱することを主張したバトラーの主張からはこのように想定されるのではないだろうか?

④  「社会的存在である個人であることと、個の境界を侵犯するエロスを追求することは、そう簡単には止揚できない二律背反である」(P95)

「社会的存在である個人であること」自体の転覆を目指すことは考えられないか? 近年のポストヒューマン理論などが繋がってきそう。

⑤ 全体を通して

(ア)想定される「レズビアン」が、現実に生きる多くのレズビアンとかなり乖離しているように思う。(多くの異性愛者と同様に)多くのレズビアンは「正しいセクシュアリティ」規範に囚われているだけでなく、それに価値を置いて生きているのではないか。「正しいセクシュアリティ」規範を転覆するのがレズビアンにとっての本当の解放だとしても、それを望むレズビアンはどれくらいいるだろうか?

(イ)全体を通して、セジウィックのいうところのマイノリティ化の見解よりも普遍化の見解*に寄っているところがあるのでは? 落とし穴としては、たとえば「レズビアン」という言葉がなくなるとよいというような主張にも聞こえうるのではないか?
*普遍化の見解とは「一見ヘテロセクシュアルな人物にも、同性への欲望は広く刻まれているし、逆のことが一見ホモセクシュアルな人物にもいえる」という考え、一方マイノリティ化の見解とは「他とは区別される『真に』ゲイである人々が存在している」という考えのこと。セジウィックはそのどちらもが有効であるとしているが、彼女自身の理論も普遍化の成功例といわれている

レジュメ作成:川瀬みちる

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