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煮えカエル

涼しい風が吹くと、いかにこれまでが過ごしづらい季節だったのかに気づく。気づかなければ、意外とそのまま慣れて過ごすから生き物の適応力というのはすごいものだ。

この1ヶ月をすごしてから、8月は涼しい顔をしていながら、なかなか精神的にハードだったのだなと知った。9月になって。

あとあとになって、あの頃はやばかったな、と思うことは誰もにとって多々あると思う。その頃の肌感を思い出すたびにずしーんと強烈な重力を感じるものだ。それが感じられるのは、今が軽いからであって、感じられることがありがたいと思う。本当にやばい頃は、やばいことが普通なので、熱湯の中のカエルのようなものなのだ。その渦中から出てみないと分からない。涼しい風が吹いてみないと、暑すぎたと気づかないように。

ときおりFacebook のおせっかいで「8年前の今日の投稿」みたいなものが出てくる。その写真などを見てその頃の心境を思い出してみると、もう違う世界の人なんじゃないかと言うくらい煮え煮えのカエルだ。その頃の自分に言いたい。「それ、エゴじゃん、気にしなくていいじゃん!」

そういう今だって、いつかこの先のもっと軽い自分から見たら、どうしようもない煮えたカエルに映るかもしれない。そうであってほしい。伸び代はあった方がいい。どれだけ軽くなれるのか、その方が楽しみだ。

どのみち、煮えていることをその時に知ることはできない。知らないこともよいと思う。気づいていないから、やれている(楽しめている)ということもある。
常温に戻ってから、「あの頃は煮えていた」と思えば良いのなら、それは「アブナイ思い出」ですむわけで、安全地帯からの懐古だ。そこまで戻れば、もう同じアドベンチャーをわざわざやりはしないだろう。

基本的に、人生ぜんぶ、やばいアドベンチャーだ。人間をやるということは。
(そういえば、原稿を書いている時に、「人間をやる」という表現をしたところに、ことごとく編集さんから赤を入れられていた。「ごめんなさい、意味がよくわかりません」とノートがついていた。そっか、意味わからないよね。だけど、結局無反省に使い続ける。「人間をやる」以外に私の中でぴったりな他の表現がないんだ。使い慣れた言葉って使ってしまうね。)

いつか、人間を終えてから「うわ、人間やってた頃って、やばかったね〜」と言うに違いないと思っている。

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