使命について
以下は、文通において使命のご質問を頂戴した際のやりとりの一部です。
それに加え、文通でもセッションでも、YouTubeでもまだ話したこともないことをプラスアルファで書いてみています。
ご自身の使命について考えていらっしゃる方は、よろしければご覧ください。
A.
まず、生きていることそのものが、使命、という観点を導入してみてほしいです。
今というタイミングに自分がこのキャラクターとして、ここにいることが、もうまるまるそのまま、意識世界の均衡のために必要な構造なのだ、という認識です。
各人は、全体という織物を構成する1本の糸のようなもので、存在しているだけで、要石のような役割を果たしています。そのありのままの姿を発揮することでこそ、世界のために一役買っている。
この時点ですでに使命大達成です。
それは「大丈夫、みんなに価値があるよ〜」とかいうただの生優しい慰めではなくて、物理的にそこにそれがないと成り立たない、という「厳密に計算し尽くされたバランス」のようにすら感じます。
じゃあ死んだらどうなってしまうの、と思うかもしれませんが、
三次元世界でキャクターをやるという方法でなく、さらに三次元なども超えた宇宙全体の意識として、全体のために計算尽くされた価値を発揮するだけであって、どこにどんな形でいようとも、常になくてはならない役割を果たし続けます。これは変わりません。また人間に戻ってその役割を発揮する場合もあるでしょう。いずれにせよ、立派に役目を果たし続けます。どの次元で何をしていようと、優劣はありません。
個人の体験できる個人の世界はその人の体験できる範囲のみですが、たとえば、今日自分が朝に好きなものを食べてほっとするという世界を自分の世界で体験する時、どこかの知らない国の知らない人たちが、それぞれの世界で今日喧嘩をするはずだったけれど、今日喧嘩をしなくなる、みたいなことが普通にあると私は考えます。なぜなら、各人が各人の世界を持ちながらも、根底では意識部分で繋がっているからです。
そういう、無数の可能性で作用しあっている、各人の意識の数ぶんある世界のなかで、自分が今ここにこうしているということを改めて考えてみましても、エゴでは想像できない範囲で世界に影響を与えていて、それは意味の上での良い悪い関係なく、価値があると言えます。
ですので必要悪、という存在もあります。
その悪があることによって、全体が学びを体験する、あるいは、自他を体験し尽くすドラマを体験できる。などなど、さまざまです。いずれにせよ、悪も、悪なりに全体のためになっている部分もあることを考慮に入れておく必要があります。
使命はプログラミングされた快
使命というのは結局、そういう「厳密な全体の上における采配」として各人に配分されているものだと私は考えます。
たとえば家を作るのが楽しくてしょうがない人は、
「この俺は家を作るのが好きなんだ!」とまるで自分の好みのように言うかもしれませんが、
実は「俺は」ではなく
「その人は家を作ることを世界のためにやるべきだから、家を建てることに快を感じるようにあらかじめプログラミングされている」と私は考えます。つまり、好きだとごく自然に思い込まされている。
だから「私の」使命、「私の快」「私をよろこばせること」と人は「私」を主語にして言いますが、それは結局「あんたはそのパートを担いなさい」という全体の意思でもある。
だとしたら「私」をからめて考える必要はあまりなく・・・
つまり、「私のもの」として抱え込んでその一進一退に一気一憂したりする、「それがうまくいっているかいっていないか」とか「人から喜ばれているか・役に立っているか」なんていうことは案外考えなくてもいいのでは、とも言えます。
「快にしたがって、全体のためにやることを勝手にやっているだけ、それでもう果たされている」
くらいのざっくり感をもつことで、エゴをからめずに自分の快を見出しやすくなるように思います。
使命の内容
誰に頼まれなくてもやってしまうこと、勝手に気づいたらやっていること、あるいは、いつかのために、と情報をあつめていることなど、そういうものはありますか?
あれば、それは「快」に従っての行動なので、自らにプログラミングされている使命(役割)なのではと思います。(ちなみに、今これといってなくても大丈夫。最初の一文を思い出してください。いるだけで、あなたは使命大達成中です)
そこに「これを仕事にするためには」という視点で既存の職業などを探してしまうと、絶妙にオリジナルの部分が切り捨てられてしまい、画一化されてしまうので、既存の形態の中から探すのではなく、自分のフェティシズム的な喜びの部分だけを伸ばしていくことをお勧めします。
そのあなたにしかない絶妙な部分こそが天与の部分(快を感じさせ、世界のために意識がやらせようとしていること)だからです。
ビジネスをするのでも、そのフェティシズム的な部分から逆算して行うのをお勧めします。
今は「頼まれなくてもやってしまうもの」というものについて言及しましたが、
もっと上達したい、もっと楽しみたい、もっとマスターしたい、と思っているものや領域、つまり頼まれなくても探究し続けるものをメインに据えるのも良いと感じます。
それを趣味の活動で行ってもいいし、仕事にしてもいいです。
この方が、もしかすると「すでに得意なことの中から探す」よりも楽しいかもしれません。想像のつかない成長が見込めるので飽きることはない旅になるでしょう。
型にはめて画一化しない
以上のことをふまえ、再確認したいのは、使命というのはあくまでも
「各人のオリジナルの快に従って行動すること」だということです。
それはどんな段階でもいいです、下手の横好きでもいい、下手な人が頑張っている様子を見て自分も頑張りたい人もいる。「上手くなってから」と人は考えますが、必ずしもそうでなくても良い時代です。
あと、いかに既存の形にしないか、というのもクリエイティブの領域のように感じます。「そんなことでいいの???」「そんな仕事あるの??」という仕事が世の中にはあります。それは「そんなことでいい」「そんな仕事がありえる」と許せるところからしか始まらないわけです。
そして、許せることは、クリエイティブ性。
クリエイティブ性とはつまり、エゴの常識を自分でぶち破るからこそ、「そんなことでいい」と自分に許せます。そして、それを求めている人にも届く。新たな可能性を世界に見せる先駆けとなる。
あるいは、合わせ技もありです。
たとえば、ジャズヒップホップというジャンルがあります。
これは「ジャズの正統派」しかやらない生粋のジャズミュージシャンにも、「ラップ以外はだせぇ」という生粋のラッパーにも絶対に到達は不可能な領域で、両方の美味しいとこどりをわがままに、ただフェティシズム的に行うことのできた人がいたからこそ、出来上がったジャンルです。これも「それもあり!」という許可のクリエイティブ性がないと無理なことです。
そして
「そうそう!そういうの待っていた!」と喜ぶ人がたくさんいる、つまり受け取る人がたくさんいるわけです。
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