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規則と生きること

私は今、どういうわけか自動車教習に通っている。めちゃくちゃに面白い。楽しい。学科も楽しい。

しかし教本を読むと「してはいけない」「と定められている」などが山ほどある。ふだん、「自由に生きて良い」ということを話している身から考えると、この「禁止」や「規則」を本気で自分を縛る「禁止や規則」ととらえるとかなりのウェイトだと思う。
スピリチュアルなことをされている方々は、この手の人工の規則というものに抵抗感じられる方も多いのではないかと思う。
「自由なのになんで縛りがあるの?!」と。「自分の見てる世界なのに、なんで制限があるの?!」と。

ただ、車の場合は、守らないとまじで自分の命に関わるので、むしろ「ガンガンに知っていたい」と思う。それすら自分で観察しているんだけれど、それが一つの味わいでもあるんじゃないか。

たとえば、乗ると崩れてしまうからという理由で走行してはいけない道などもあるし、法定速度などもやはり、何かあった時に自分が余裕を持って止まれるためのものであり、むしろ自らを助く、命綱でもある。
つまり、「やらされていること」じゃなくて「知らないと自分の身が危ない、絶対知ってたほうがいいこと」なわけで、そう思うと自発的に取り組む意欲も生まれてくる。
だから、私の観察している世界の明治以降、がんばって交通ルールを考えた人はえらいし、いろんな苦労やエラーがあっただろうとしみじみ思う。莫大な資金とすごい数の人が関わっただろうとも思う。世界の60パーセント近くが右側通行だと知った時点で日本はすでに左側通行の街並みを作ってしまっていたという。そのときの焦りとか苦悩「これどうするよ」感はなかなか大変だっただろう。そういう人たちが、みんなが安全に暮らせるように標識などを考えて、法律を作っている。1人でも危ない目に逢う人が減るように。

たとえば、「ここが自分の観察しているからこそ存在しているだけの世界なら、人なんか殺しても何が悪い」と思う人がいるだろう。「自分の意識の投影なんだから」と。
でも、それはちがう。「殺す自由」があるのではなくて、「本当は殺したくない」という人間の精神性がもともとあり(なぜなら自分を殺すことだから)、その「本当はやりたくないこと」をやらないで済むこと。
これが重要だと思う。全部自分のため。自分と、自分の観察する世界のため。これを忘れないでいたい。


あと、ちょっとした追加として。
私が夜寝る前に感謝を捧げたいと思うのは教習所の先生たちだ。わたしが変なブレーキをかけるたびに、隣で波打つ先生の身体を見ると「ほんとすみません」という気持ちでいっぱいになる。お体、こんな衝撃を毎日受けて、ストレスなんだろうな、…どうか温かいお風呂に入って休んでほしいと願うばかりだ。
ど素人の車に同乗するという命懸けのことを進んでやってくださっているのって、本当にすごいことだ。勇気ある。
こういう人たちがいるから、車に乗れる人が生まれるのであり、それによって起こる流通があり、社会があり、というのを私は自分の世界で観察する。感謝できるものはたくさんある。
じき自動運転の時代がくるだろう。もう間近だ。それはもうちょっと年を食ったらお世話になろう。その前に自動車を自分で運転することがまだ許されているラッキーな時代を観察していることや、多少ビビって恐怖も感じたりしていることにも感謝。


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