よく晴れた秋の日、朝早くに目が覚めてしまったせいで、午後は眠かった。
しかし結構暑かったので、昼寝すべきかすまいか迷ったすえ、スタン・ゲッツのジャズをうっすらかけたままにして(何かがかかっているほうが眠りやすい)、扇風機を壁の反対側に向け、なんとなく風の流れだけが室内を渡ってくるようにして横になった。
横になってみたものの、案の定背中がじわっと暑く、こりゃシーツに汗がつくかもと、すでに秋冬物にしてある掛け布団に一ミリも触れないように、体を細長〜くして横たわっていた。
最近の私の特技として、入眠の瞬間の「確実性」の感覚的理解、というのがある。「あ、これもう寝れる」と思う、感覚のゾーン、体が甘く鈍く潜ってゆく、入り口の感覚がある日突然わかるようになった。起きている時の機能をいい感じで諦めてゆき、その乗り物に乗っていれば、あとはドンブラコと別の波のほうに持っていってくれることを確信する感覚。
今日もそれを待っていた。
けれど、いくらたっても、それは来なかった。
でも、
しばらくして、妙な快感のようなものが尾骶骨のあたりにじわーっとひろがった。意識がぐるんぐるんするというか、いつもと違って、何らかの別のゾーンがあった。
そして、寝たとも寝てないともつかない、不思議な混濁のような時間があって(しかしスタン・ゲッツは聴こえ続けていた気がする。全部でないにしても)、何度か起きながら、また意識は混濁した。
その混濁した意識の途中でふと、何か唐突にこう感じた。
「あれ、これは気を抜いたら幽体離脱するぞ」
気を抜いたら、自分が体ヒューっと抜けてしまい、別のところに行ってしまうことへの急な緊張感が訪れた。体は主がいなくなって、実質「だれもいないから、空家」の状態になってしまう。そうすると、へたすると機能しなくなって、機能しない170センチ近いナマモノを保管しておくこともできず、医学上では「ご臨終」として扱われ、荼毘に付すしかない
という状態までを、混沌とした意識状態の中で瞬時に思い描いた。
「…いやいや、ちょっと待って!それは困る」と思った。
じっさい、まぁもしそうなったら、それは私にとっては悲劇というよりかは、あながち「え、いいんですか」というようなラッキーにも見えなくもなかった。もっとも恐ろしいらしいと世間では言われている「死」というものを、拍子抜けのチートな方法で体験する幸運。長い列に並ばないで、厳重な荷物検査を受けないでパスしてしまうVIP的体験。
しかしまぁ、家族からしたら、たまったもんじゃないだろう。帰ってきたら、細長くなって、こときれている奴を発見する。あきらかに不審死。一般的には幸せとは言えない展開になるだろう。
「この人、いったい何を思っていたのかしら…こんなに細長くなって・・・幸せだったのかしらこの人は(涙)」と棺の中の額を撫でられたりするだろう。
しかし、こっちもたまったもんじゃない!なにせ、こっちはウッカリ抜けちゃっただけなのだ。
いや、ほんと、何も思ってない!気づいたら抜けちゃったんだってば…!
地団駄を踏んでドラマ拭い去ろうとしても、幽霊だから地団駄も踏めない。
よく、喪に服して悲しんでいる人の周囲でラップ現象が起きるのも、これなんじゃないだろうか。
「お願いだから、その嘆くのやめてくれ!不幸扱いするのやめてくれ!脚色やめて!普通に抜けただけだから〜!」
霊媒師が「・・・”泣かないで、心配しないで、私は大丈夫だから”と言っています」なんて言って伝えるのも、その「頼むからやめてくれ」を遺族との温度差を緩和するためのオブラート表現なのではないか。
あるいはシグナルの受け取り手としての霊媒師自身がまだ「死は忌まわしい厳粛なもの」という先入観を持っているために、その幽霊の地団駄のニュアンスが、伝わらないのか──だんだんと、このどちらかなんじゃないのかと思えてきた。
そのややこしい行き違いを事前に阻止して、家族に「本当にマジで平気だ」ということを伝えたいと思えば、体のあるうちにその類のことについての取り決めをしておくのがいいわけだが・・・「もしさ、私がウッカリ体から抜けちゃって、体を処分する羽目になったら、べつに私は不幸じゃないからあまり気にしないで処分してね、別のところにいるから」なんて言っておくのも、「いつも見守ってるよ」的で、逆になんだか言い終わった数秒のうちにジワジワと頼んでもいないのにニュアンスが変わってしまって、お涙頂戴路線に乗り入れしそうな感じもある。
むずかしいものだ。いずれにせよ、脚色が入っちゃうんだからさ。
このちょっとした昼寝の間に、死というもの自体の周辺につきまとっている過剰な何かを少し透かし見ることができたのは、哲楽家としては良い収穫だったし、
それともう一つ、この時、同時に思い巡らさずにいられないことがあった。それは
自分の意識が自分の体に接続されてるということが、ちょっとした塩梅の奇跡で起きているという事実。
自分の体と意識。どこかに糊があるわけでも、物理的な連結点のようなものが、ガチャンとラッチ(カチンと音がなって接続されること)されているわけではない。ただなんとなくの成り行きで接続されているだけなのだ。
クギを使わないで、支え合って構成されている建具よりはるかに形而上的(目に見えなくて)で、たよりない。
しかも私たちはこの頼りなさすぎる形而上の部分に全面的に頼っている。
頼らざるを得ない。普段は目に見えることばかり信じているくせに。
ただなんとなく、今日も私はそれに頼り、私に宿っているだけなのだ。
うわ〜〜〜こわっ…!!!
震えた。
そう、ただなんとなくなのだ。
今日の私が私でいること。私という意識が、この体に接続していること。それは、なんとなくの奇跡なのだ。
どうして世界各国にスピリチュアルという考え方が生まれるのかがやっと自分の中で腑に落ちた。
哲学をしてゆくと、ある段階で、目に見えないものに大きく頼らざるをえないという事実にどこかでぶち当たるからこそ、「そこを研究したほうがいいじゃん」ということになるわけだ。
すくなくとも、自分が、今日なんとなく何らかの目に見えない奇跡によって、体に接続されていること。
その奇跡に感謝…もとい、驚愕してみることは、いつでも十全にできるわけなのだよなぁ。
──という美しいところで完結することもできる。もちろんここで読みとめてもらってもかまわない。「ありがたいね今日も生きている」で終わらせること。
でも、せっかくだから、ここで止まらないでみたい。
どう展開したいかというと、
もしかすると、体の方が幻想なのかもしれないという見方もしっかりやっておきたいのだ。
それは、本当の意味で「死」の印象を解いておくためにこそでもある。
「体に接続させいただいていること」と、いかにも体に接続していることが尊いすばらしい、無くてはならないことのように思っていること自体が、実は洗脳のようにも思える。
なぜなら、実際はどこかの段階で、私たちは絶対この体から出なければならないことは確定しており、事実でもあり、だとしたら、「体の中にいること」を「絶対」としてしまうこと自体が、危ういし、いつかは破綻する悲劇でもある。その悲劇に自分のアイデンティティと幸福を委ねておくのはどうか。
それにそもそも、万一自分がぼさっとして抜けてしまったあと、自分の意識に追随してこないものというのは、「自分の本当の姿」ではないということも言えやしないか?
海外旅行をするとして、飛行機に乗っても日本という土地がよいこらせと背中にくっついてくることはない。移動するのは、個人だけ。
つまり、体験の核はどこにでも行けるが、器はついてこれない。自分という意識の体験の核の方だけが「あ、抜けた」と主体的に思うことができる「わたしはオーストラリアに行く」ということもできる。日本の国土を背負わずに。しかし、日本の国土が、「私が抜けた」とは思えない。思う力を持たない。
だから、体は本体ではない、ということになる。どこまでも「自分」として追随してくる「これが私」という知覚の主体、意識の方が本体。
その「知覚の主体」がたまたまぴったり「体」と重なっているからそれを「自分だ」と誤解してしまう状態。
となると、震えるほどの奇跡というのは、実のところ、「こわっ!」と本気で震えるほどの臨場感で、体を「本当の姿」「本当の身分」と思い込める「ピッタリと一体化」の臨場感を味わえるころなのかもしれない。
「ありがたいね、今日もとんでもない仕組みで、とんでもない臨場感を楽しめている」
こっちへ抜けていきたいんだ。