「教育」は学問か。

FEIS運営の稲澤です。

Noteも何度か書くうちに、キーボードをたたく手がスムーズになってきたきがします。これは、シンプルにタイピングの能力が上がったこともそうですが、こう、文字で思考することに慣れてきたからかなとも思います。


さて、実は今日高校生とお話をしてきました。
そとは大雨でとても寒く、家から出たくない思いもあったのですが、終わってからの満足度はやはり他では味わえないものがありますね。

その中で、たくさんの気づきがありました。今回はその中の一部を共有しつつ、話をしていきたいと思います。


私は研究室の人たちと、もしくはチームのみんなと、「いい教育を作るにはどうしたらいいか」というのをテーマによく議論しています。
それは、議論のための議論というよりかは、いかに課題を解決し、実践するかということが多いです。

今回話した高校生から、たくさん高校の現状を聞くことができました。
その話の中で、その子自身は、高校の、特に探究学習に対して不満を持っていることが分かりました。私も、もちろん角度は違うものの、その探究学習の授業に対しては、確かに不満をもってしまうのだろうと思いました。

その話の中で、いくつか出た不満やその解決策(高校生自身からのも含みます)は、工夫次第で実践可能に見えるものでした。しかし、高校生からのアプローチや外部の私たちが介入することは、とても難しいことです。

それを実践に移すことができないということに、私は少しもどかしさを感じました。こんなにも具体的な解決策に落とし込んで、それの実現は簡単であるというのに、どうして実現させてあげられないのかと、そう思いました。


この、外からの声を実現までできないことは、構造上仕方のないことです。

今回私が言いたいことはそこではなく、果たして教育が「学問」として成立していることにどのような意味があるのだろうということです。

私たちが高らかに掲げる理想の教育は、それがいくら具体的であろうと、実践されなければ絵に描いた餅です。
また、その「餅」が果たしておいしいものかは食べてみないとわからないように、理想の教育が本当に理想かも、実践されなければわかりません。

私たちが理想の教育を学問としてもしくは議論して追い求めることは、果たしてどのような意味があるのだろうと、痛感した瞬間でした。


FEISでは理想の教育を作り上げ、それを現場あるいは社会に届けることまでを目標にしている団体です。それは「学問」としての教育ではありません。
良い教育を形作り、子どもたちに幸せになってほしい皆様の参加をお待ちしております。

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