「自閉」はむしろ生き抜くための力。

ニューロダイバーシティが叫ばれる時代、「自閉傾向」や「自閉症」というワードに対する認識も、少しずつ偏見や差別は減ってきたのかもしれない。

とはいえ、自分自身、自閉スペクトラム症(ASD、かつてのアスペルガー症候群)と診断されているわけだが、それでも、誰に対してでもオープンにできるわけではない。まだ社会には、マイノリティが生きづらい環境がずいぶんと残っている。

最近、コミックやラノベで「異世界転生」ものが流行っている。これらは、たまたま何かのきっかけで一般に広く受け入れられるようになったのではなく、時代の流れのなかで必然的に生まれてきたものだ。と、少なくとも自分はそう考えている。

人間の遺伝子構造などはほんの数百年程度では変わりようがないのだが、この現実世界は、特に近現代において、さらにはインターネットの普及によって、ここ30年ほどで急速にコミュニケーションのあり方が大きく変容した。

従来、気が遠くなるほどに長い人類の歴史において、一個の人間が生涯で出会う人間の数など、せいぜい数十人から多くて数百人だったのではないかと思う。ましてや原始的な生活では、ひとつの集落の構成メンバー以外には一生会うこと無く、その生涯を閉じていたのだろう。そして、そのような原始的時代が最も長く続いた。その間に人間の遺伝子の内容が決まっていったのは言うまでもなく、現代人も、その遺伝情報のまま、まるで別世界とも言える現代社会を日々生きている。

原始的な脳のまま、複雑なコミュニケーションの求められる現代社会を生きていくことは、果たして人間として「自然」なことなのか。どう考えても、「不自然」極まりないことと感じる。

大多数の人は、なんともないような素振りで生きているように見えるが、これはたぶん「アトピー」と同じだ。つまり、不自然なものを日々摂取しても大多数の人にはすぐには症状は出ず、自覚症状もないものの、長い時間をかけてゆっくり身体を蝕んでおり、生活習慣病や晩年の各種疾患に表れるのだろう。一方で、アトピーの人にはすぐに目に見えるかたちで症状が出るため、摂取自体が受け付けられない。

特に「コミュニケーションに困難がある」と言われるASDは、脳神経発達上のアトピーなのかもしれない。あまりにも人間にとって不自然なものが受け入れられないのだ。そのため、当然のごとく一般社会で打って出ていくことができず(締め出し)、社会の側からは「自閉」と言われる。

「自閉」とは言うが、「他閉」と言ったほうがより実態に則してはいないか。なぜなら原因は社会の側にあり、社会に内包された不自然さによって「閉ざされている」からだ。他者によって閉ざされた扉は、こちら側には取っ手はなく、奥に押し開けることもできない。「障害」という概念も、近年、国際的には、当事者本人に原因があると考える「医学モデル」ではなく、社会の側にこそ原因があると考える「社会モデル」が通説だ。

もちろん、中には、正当な理由もなく他者を拒んで、内に籠もろうとする本当の「自閉」もあるかもしれないが、少なくとも分けて考えるべきであり、一緒くたにするべきではない。現代では、おそらくほとんどのケースが「他閉」に当たる。そして、逃げ場を失い、居場所が見つからないのである。

話を異世界転生に戻すと、現実世界でいったん死んで、まったく別の世界において生き返る(転生する)というストーリーは、現実世界で居場所を失い、不自然なほどの過剰なコミュニケーションを社会から強いられ続けて疲弊している人にとって、おそらく一種の「救い」になっているのだと思う。

中には、「作り話に逃げるな」とか、「現実から目をそらすな」という人間もいるかもしれないが、残念ながら、筋違いであり大いなる勘違いだ。人間は、現実との狭間でバランスを取らなければ、うまく生きていくことはできない生き物だからだ。光だけを肯定して、影を否定することはできないし、春を肯定して冬を否定することもできない。すべて必要であり、動的に均衡している。

数年前、「メタバース」という言葉をよく耳にするようになった。2021年10月にFacebook社が社名を「Meta Platforms」に変え、メタバースを事業の中核に据えたことがトリガーとなって、2022年にはよくメタバース関連の書籍が出た。今後、メタバース(オンライン上の仮想空間におけるアバターでの活動や価値の交換)が、従来のWeb2.0的なSNSサービスの代替あるいは延長として社会に普及していくのは間違いないと考えている。

しかし、このメタバースも、アバターを使った、実名や実の姿を隠した交流とはいえ、他のアバターの中にいるのはあくまで生身の人間であり、そういう意味では、現実世界の一部とも言える。使い方によっては、やはり人間関係で苦しんだり疲弊してしまうということも起こり得る。自分としては、あくまで人と交流すること自体に大きなストレスと疲れを感じてしまうので、利用するにせよ無理はせず、基本的にはソロ行動を通していこうと思う。

まとめると以下の通り。

いわゆる「自閉」であるというのは、現実世界を生きる上で苦しみを伴う、辛い事実ではあるが、見方を変えてみれば(リフレーミング)、社会の毒に対して敏感であるがゆえに、それを不必要に摂取することなく、アニメや漫画、ゲーム、推し活などのサブカルチャーに「避難」あるいは「戦略的退却」することができる、一種の「能力」と言えないこともない。そして、そういったサブカルのなかにも多様で有用な人生的教訓も多く含まれており、決して「時間の無駄」ではない、とも付け加えておきたい。






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