レックスルーサーについて

  最近のレックスルーサーっていいよねっていう話。なぜにこんな話をするかというともうすぐDCが今年の「最悪のヴィラン」を決めようというネット投票のイヴェントがあり、そこで私はレックスルーサーはいいぞ、って話をするのである。 

 レックスルーサーといえばスーパーマンの宿敵であり、スーパーマンを憎み破壊しようとたくらんでいる起業家であり発明家……というのがここ数年前のパブリックイメージだった。

 そんなルーサーがこの2,3年で大きく変わってきた。正直に話すと私はレックスルーサーという男が好きではなかった。それは彼が邪悪で命の尊厳とかなにもないとか、傲慢でいけ好かないからとか、そういうことではない。もちろん、そういった倫理観が欠けた部分は嫌悪に値するが、それはキャラとしての話。むしろヴィランとしてはよくできた人物だと考えている。人としての尊厳を一切気にせず、ただただ名声のためだけにすべてを粉砕遷都する態度はよいと思えた。

 私が気に入らなかったのは彼の今までの動機だ。彼のここ数年前の動機は「名声」だった。彼は人々から賞賛を得たい、永遠に祝福される存在でありたいと願っていた。そこまではいい。なんなら人としてはそういう欲望も下心満載だが、いいと思う。だが、そのために彼が何をしたかというと、たった一つ。「スーパーマンの邪魔をする」ということだ。

……理解し難い態度だ。本当にそれだけ名声を望むというならスーパーマンを無視して、大きな偉業を成し遂げればいいはずなのだ。名声がほしいのなら何ならほかのヒーローと同じように人助けをすればいいはずなのだ。だが彼はそんなことをせずひたすら悪の計画を立て、町を制圧しそしてスーパーマンの邪魔をする。正直言って、阿呆であると私は思っていた。なぜなら彼ほどの才能ならスーパーマンなんぞ気にせずに、名声を集めることに執着すればいいのにと読みながら彼のことを「世界一愚かな男」と考えていた。だが、最近の彼は違う。

 きっかけはフォーエバーイーヴィルからだった。フォーエバーイーヴィルというのはDCのNew52における初の大規模イベントであり、既存のスーパーヒーローのほとんどが倒され、そこにつけこみクライムシンジゲートと呼ばれる「悪のJL」が世界を征服してしまったのだ。

 そこに立ち向かったのがレックスルーサーだ。もちろん、彼の目的は名声のためだが、これが功をなし、彼はクライムシンジゲートを倒し、彼は気が付く。「ヴィランであるよりもヒーローである方が名声をえれるのではないか」。そこで彼は方針を転換し、ルーサーはJLに(むりやり)加入し、バットマンの正体を暴いて、バットマンに地味な嫌がらせをしつつ、彼なりのヒーロー業を楽しんでいた。

 だが彼はそこでも違和感を持っていた。「実際に手に入れた名声というのは何の意味があるのだろうか」。彼はヒーロー業をなすうちにその違和感が大きくなり、ついにNojusticeといわれる事件を契機に彼は未来に向かう。ー自分が名声を求めた結果のまま突き進むとどうなるのか、それを知るために。

 結果は彼にとっては最悪の一言だった。確かにルーサーは後世に名前を残した「世界最大の失敗者」として。未来でそれは悪い意味ではなく、むしろ賞賛として彼の名前が残っていた。未来人たちはレックスルーサーの人生から多くのことを学び、変革をもたらした。そして彼の名前を模した街までつくったのだ。

 ルーサーはそこで気が付く「名声とはなんだったのか」と。彼は初めて自らの過ちを認めた。

 そこからルーサーは本当に欲しいものが何だったのかを探求した。彼が望むものはなんであったのかを。それこそが「Doom」だ。DOOMというのは翻訳すれば「破滅」だが、もともとの意味として「逃れられぬ運命」も意味している。ルーサーはその運命を受け入れることこそが本当に自分がしたかったことだと気が付いたのだ。

 その運命こそ「弱肉強食」。先の事件、NoJusticeにおいて宇宙は運命論的なニヒリズムに満ち溢れていると気が付いた。所詮は強いものが勝ち、弱いものはただただ搾取され続けるだけの世界。集団は強い個によってはじめて成立する。Justiceといった公平や倫理や規範というものはまやかしに過ぎないということに結論をづけたのだ。

 こうしたDoom思想の最大の特徴は簡単に言ってしまうと「自分さえよければいい」といったものだ。他人に指摘されたり非難されたりすることに何の意味もない。ただただ自分だけが得することこそが最大であり強大であると彼は気が付いたのだ。

 これは単純明快ゆえに強力かつ強固であり、現代の社会的な問題にも通じている。例えば社会福祉といった弱者を守る政策というものが近年の社会によって培われ作られてきたものだ。だが、ここ数年においてそういったものを発展の妨げになるとして遠ざける傾向が最近においては世界のいたるところで見受けられる。

 それは福祉といった大きなものだけでなく、人と人が面と向かわずにつなげれるようになったネットでも同様に起きている。ネットにおいて問題提起を行ったり、ネットで自由に発言ができるようになったからこそ出てきた不満に対して、そういった不満こそがネットの表現を脅かすとして否定的な立場で立つことは往々にして見られる。

 ルーサーのDoom思想はそうしたカウンターの凡てを肯定している。その通りだ。他人を気にしたりすることは自分の歩みにとって最も弊害であり、引いては自分の発展の妨げになる。邪魔ならば消してしまえばいい。そうすれば自分の幸せは手に入ると彼は結論付けたのだ。

 そこからルーサーの動きは早かった。今まで自分を「名声」という倫理や規範というものに縛り付けていたものを破壊し、彼は持てる限りの力を使い、自分の幸せを手に入れるために文字通り宇宙そのものを食い物にしようとし始めている。

 私が最近のルーサーを気に入っているのは先ほども言った通り、彼のDoom思想は現代の問題に通じ、そして本質的にはあまりにも卑小でちっぽけで平凡な悪だからである。

 普通フィクションにおける巨悪というのは計り知れない圧倒的な悪である。例えばダークサイドやDIOといったいわゆる悪のカリスマによるところが大きく非常にわかりやすいのである。

 だが現実の悪というものは非常に分りにくく厄介だ。ぱっと見ではむしろ正しさを持っており、時にはそれが大きな支持を得てしまい、政権を奪取してしまうときすらある。そしてそれはコミックというフィクションでも丹念に描かれている。レックスのDoom思想に賛同するのはヴィランだけでなく、一般市民すらも魅了されている「Luthor is Right」と。

 私はそこを最も大きく評価している。Doom思想は「自分さえよければいい」というものだが、それをもっとあしざまに言ってしまえば「自分の正当性をただ無条件に肯定してい貰いたい」といったものであり、どこまでも醜く浅ましいものなのだ。

 そして仮にDoom思想を実践したからといって、うまくいったからといって、行きつく先は滅尽滅相。自分以外がなにものもいなくなってしまう世界でしかないのだ。自分「のみ」を肯定するということはそういうことなのだ。

 それでも現実でもルーサーの思想はこの世界のいたるところで支持されている。

 だからこそ私はルーサーを今年の「最悪のヴィラン」として選ぶ。彼は現代、否、歴史上もっとも平凡な悪をフィクションとして落とし込めたキャラクターとして語り継ぐのに十分に値するからであると考えるのである。

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