安心、安全と科学者の役割
「安心・安全」という言葉は、かつて小池知事が豊洲で使った言葉ですね。この場合は、「安心・安全」のために豊洲市場の開場が遅れることになりました。
今回の五輪は、逆に「安心・安全」を謳いながら五輪は強硬されました。
どちらも「安心・安全」という言葉を使っていますが、そこには感情論が先行した主観的判断により意思決定されたものだと認識しています。
この記事は、あたかも尾身会長擁護で、科学より政治優先と述べられていますが、そもそも科学的根拠というのが国民に透明性をもって説明されていません。最初から最後まで人流制限であり、飲食店への制約論議ばかり…
個人的には、むしろ昨今は家庭内感染の方が深刻化しているのではないかと危惧します。
果たして科学者はきちんとしたメッセージを送っているでしょうか?
42万人が死亡するという西浦教授の見解は、医療を充実させるのを躊躇させたのではないでしょうか?実際にはワクチン接種も進み、42万人は結果的にウソでしょう。科学者(らしき人)が、こんな間違いな情報を平然と流すこと自体、考えられないことです。
むしろ「さざ波」と「屁でもない」発言の高橋教授の方が、ある程度現実に近い数値をたたき出していますし、真っ先に予算をつける提言をしましたよね~♬(まあ、3兆円余らせた官僚の責任は大きい気がしますが…)
いずれにしても、科学者であれば、現実に近い予測のもとに、適切な見解が出せなければ、つまり現実に即して意思決定できるだけの確かな材料を政治側に提供できなければ、かれらは科学者として招集された意味は薄いということ…
そんな薄い内容を政治側に提供すれば、政治側の意思決定も誤差が大きくなるのは必然ということ。これは与党だろうと、今の野党が与党になったとしても、同じように右往左往するわけです。
科学者はきちんとしたデータと、そのデータをどのように分析し、それを捉え理解した上で、どのような選択肢があるのかを、政治側に伝える必要があるのですが、その科学的な検知の透明性が確保されないまま、政治家ないし国民に伝えるだけなので、肝心な「きちんとしたデータと、そのデータをどのように分析し、それを捉え理解した上で、どのような選択肢があるのか」が不明のままの説明に、受け手は全く理解できていないので、腑に落ちない中で齟齬だけが目立ったのだと思われます。
その点で、一般の人は、総理含め政府に責任の所在をもとめ、また尾身さんののらりくらり状態の解説に違和感を得た人も多いのでしょう…
その意味では「科学が置き去りにされた…」というこの記事の題名がそもそも間違いで、「科学者が科学的説明を放棄したために生じた…」というのが正解でしょう…
科学者は、0か100かという議論なかなか難しく、1%でも異なる事象が発生する確率があると「断言することをしない」のが良識ある科学者だと思います。
ただ、そうであっても、どの程度の確率でそうなるのかをきちんと分析・判断し、結果として伝えることが必要だと思います。特にコロナのような感染者や死亡者の数値、ワクチンの効果など数値的なデータが数々上がってきている状況であるわけだから、「どの程度の誤差の範囲で、この程度になる」というのをハッキリと予測できる科学者が必須であり、42万人が死亡するなど、よほど無茶なことを言う科学者は、現実に即した意思決定をしていく過程において不要な科学者だと私は思う。(結局、西浦教授は北大から京大に出世されましたが、このような人の出世を許す学術界というのも、昨今の政治と同じで、有名人になれば、その人気にあやかって学生が増えるので、広告塔になってもらおう的精神で、学術の内容云々とは違う意思決定に基づいているんだと理解します…)
その意味で、科学者はより確度の高い分析をしないと、単なるデマとかわらないと認識しないとならないかと…
つまりはそのような認識に立つ科学者が育ってないと、日本は今後も不確かな情報で右往左往されることになる…
ということで、もっともっと「考える人」を育成しないと未来は危なくなりますね…