レプティリアンと一緒に恐怖と原罪の概念を考えてみる!
こちらの記事で書きました、
自分の想定内のことしか起きないようにできる。
これです。これがレプティリアンの求めてやまない感覚なのです。
ここらへんを今回掘り下げていきます。
とりあえず簡単におさらいしておきますが、
めっちゃ好きなものは手元に置きたい・いつも愛でたい=予測の範囲内に置きたい →支配・所有しよう!
ということですね。
その裏返しとして、その通りにできないこと、つまり予測が裏切られることへの恐怖が生まれます。
これ、要するに、神への恐怖です。
神様っていうか、表現はなんでもいいんですけど。
人生って予測のできないことの連続ですよね。そこが面白いのですが。すべて奇跡とも言えますしね。
でも、「予測したい・支配したい・全部思い通りにしたーい!!」という、レプティリアンの方々にとってはそりゃ、もう最悪です。敵です。
彼らは神が大嫌いなわけです。
だから悪魔崇拝なんですね。
悪魔論はまた話が長くなるので別記事で書きますけれども、とりあえず神に対抗しようとした存在ということでみなさん共通認識があるかと思います。
神に対抗するっていうのは、要するに、神にかわって万物を支配することなわけです。
予測を超えた奇跡だったり、時の流れ、うつりかわり、うつろい・・・そういった神のなさることを拒絶する。
悪魔崇拝のおおもとのところは、万物に対する「好き!」というかわいらしい気持ちだったという・・・・・そういうことです。
ヤンデレをこじらせすぎちゃったんですねwww
そして、このヤンデレ、わたしは「原罪」でもあると思っています。
キリスト教のことはよくわかりませんので、独自の言葉遣いかもしれません。でもどこかで読んだのですよ、
一輪の花を手折ることが原罪
という話を!(思い出したらリンクします)
花を手折るというのは、まさに支配そのものだと思うのです。
「花がきれいだなあ。枯れてしまうのはつらいな。このまま美しい花でいてほしい。自分のものにしたい。永遠に・・・」
めっちゃレプティリアンっぽいじゃん。つまり中二病ってことかw
とにかく、枯れてしまうのがつらいというのは、うつろいへの拒絶で、それってつまりは神への拒絶だよなあ。としみじみ思うのです。
そう考えると、たぶんみんなレプティリアンですね。仲間ですw
アダムとイブに智恵の実あげちゃったのは蛇ですよね。まあそういうことですよ。
知恵と恐怖は表裏一体という話に続きます!