叔母とバイアスと私
私には40近くまで嫁に行かずにずっと実家暮らしで仕事しかしてなかった叔母がいて、幼い頃はばあちゃん家に行くたびにいつも全力で遊んでくれた。
我々三姉妹と歌って踊る姿や、一緒にお風呂やプール入っている映像やらが沢山残っていて、当たり前のように大人になってからもそのビデオを見ていたが
ふと考えた時に、今の自分がまさに当時の叔母と同じ立ち位置じゃないかと気付いてしまい、当時今の私のような気持ちで叔母は自分達と遊んでくれていたんだろうなと思うと、大変ありがたいというか感慨深い気持ちになった。
長らく家で祖母の介護をしてた頃
母親であるばあちゃんの様子をたまに伺う連絡をくれる以外、叔母はあまり物理的にも精神的にも助けてくれる存在ではなかった。
自分のメンテナンスや、もう高校大学の息子娘の学校行事を理由に何度となくSOSを断られ
実質どうしようもなくて私が会社を休む事で成り立っていた介護トラブルの際に
助けてくれない存在としてのイメージがどんどん強くなっていた。
親なのに。
娘は母だけではないのに。
母は必要以上に責任感を自分に課して
出来る限り人に頼ることをしないというモットーを全力で掲げている生き物なので
妹である叔母に助けを求めるのはよっぽどの理由がある。
今考えれば、もっと早く周りを頼ったり
自分を過信したりせずに
自分のことも大事にしながら介護ができていたら
もう少し母も私も楽だったんだと思う。
今でも母は、娘や孫の世話を同等の責任感で文句を言いながらこなしている毎日ですが
当時から何度伝えても理解してもらえなかった
受け入れてもらえなかった以下、母へのお願い事項
『人に助けを求めること』
『自分を犠牲にしてまで人の世話を焼かないこと』
は
【性分だから無理】の一言で片付けられてしまい
娘の私にも無言の圧力で責任感を背負わせたり
暗黙の了解で 娘は助けてくれるもの と思い込んで悪びれもなく生活を拘束する【性分】は変わらない。
話がそれました。
当時はさぞかし高級だったであろうビデオカメラを買ってくれたじいちゃんが、日々尽く肩に担いで回してくれた事も(あの頃はまだトースターぐらいのサイズ感だった)
当時まだ元気だったばあちゃんが我々にご飯を作ったり、お泊りの朝には必ずミックスジュースを作ってくれたりした事も
帰り際にベランダから懐中電灯振り回して見送ってくれた事も
まるで昨日のことのように鮮明に思い出したりなんかして。
もしビデオがなかったら
見返す機会がなかったら
叔母が私達と遊んでくれていた日々や、今鮮明に思い出せる爺さん婆さんとのアレやコレやも
幼すぎる私たちの記憶からは消え去っていたかもしれないし、大人になっても思い出せないかもしれない。
当たり前だったいろんな日々が、いつからか当たり前じゃなくなって、気付けば逆転したり順番に引き継いだりしていて、その時のいろんな人の気持ちが分かる頃にはもういろんな事が手遅れになっている場合だってあるんだから人生ってやつは難しい。
今私が、日々どんな気持ちで家族と過ごしているか
甥っ子達のことは心底可愛いと思っているけど
どこかでいつも惨めな気持ちが湧いてしまう事
甥っ子や妹ではなく
母に呼ばれて母に頼まれて一緒に過ごしている事も
結局自分のやりたいことや
やらなければいけないことまでがいつも後回しになって
それでも甥っ子と過ごす時間は大切にしたいと思う事も
この、うまく言葉に言い表せない
もどかしいような情けないような気持ちを
もしかしたら叔母は分かってくれるのかもしれない。
当時の叔母に、そんな気持ちまでが芽生えていたかどうかはわからないけど
少なくとも自分と同じ境遇の人が周りにいない以上
私はこの気持ちが誰にも分かってもらえないと信じ込んで誰にも話せないでいるので
結果、話さないけど
もしかすると分かってくれるかもしれない存在 が、この世にいるという事実に、勝手に安心した。
もし、当時私達に付きっきりで遊んでくれた叔母が
同じ思いでいたとして
その後、結婚して子供も産まれて
やっと手に入れた
手に入らなかった幸せを誰にも邪魔して欲しくない なんて気持ちがどこかにずっとあったとして
葛藤の末に姉からのSOSを断っていたんだとしたら
なんだかとても申し訳ないような気持ちと
それまで長らく文句の一つも言わずに我々の世話を焼いてくれた叔母に対する感謝の気持ちが溢れすぎて、泣いた。
すべては私の想像と妄想の世界で繰り広げている予想でしかない。
ばあちゃんが死んだ時
葬式の帰りに私を抱きしめて
「あんたの青春を私が全部無駄にした」と言って大泣きした叔母に
私は非常にクールに
「私の青春はこれからだ、応援してくれたまえ。」と宣って笑った。
私は青春を私なりに謳歌した気でいたし
部活に行けなかった高校時代も、嫁に行けなかった青年時代も、叔母のせいだと思った事は一度もない。
介護生活から解放された4年前の9月末。
これからが青春のスタート、だなんて言葉だけが
叔母を安心させるための嘘だった。
早くに家を出て結婚して
なんのトラブルもなく三人も子供を産んだ姉(私の母)に対して、密かに劣等感を抱いていたとして
毎週のように送り込まれてくる三姉妹の世話を焼くことで
若かりし叔母の時間を大量に奪っていたことにより
意図しない拘束を生んでいたんだとして
そんな叔母がやっと手に入れた幸せを大切にするあまりに
母(祖母)の世話から意図的に逃れてしまっていて
そのことにとても罪悪感を抱いていたんだとしたら
それが事実でも、勘違いでも、どっちでもよくて
ここまでの人生の何もかもが
全部繋がったような気がした。
そのことを簡単につぶやいたTwitterを
叔母本人が見ていて
私が連絡するよりも先に連絡をくれた。
そこには幼かった私が実際に忘れていた
記憶以上の記憶が詰まっていて
さらにいろんなことを思い出して
「本当~に可愛かった!」という一言にまた、泣いた。
今までもこれからも、介護に協力的でなかった叔母を攻めるつもりは全くないし、今は尚更、そうしてくれてよかったと思っている。
今、幸せに暮らしているならそれでいいし
いつか甥っ子たちが大人になった時に
同じように私のことを思い出してくれなくてもそれでいい。
思い出してくれれば尚嬉しいけど
私は私が一緒にいたくて、甥っ子と一緒に過ごしている。
母からの呼び出しや指示や無言の圧力には
いつまで経っても慣れないけど
そこに妹や甥っ子がいるから、一緒に過ごせている。
そして私は、私の母にも
【自分を犠牲にしない選択肢】を持ってほしいと切に願っているし
きっとどんなに願ってもそれは叶わないだろうけど
自分を犠牲にしてまで人を助けなくても
それは【悪】ではないんだと、死ぬまでに分かってもらいたい。
そして、同じようにそれを私自身に対しても
言い聞かせようと思う。
私の青春はこれからだ、応援してくれたまえ。
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