【創業大正2年:北海道イチの老舗水産加工企業。買い付けから加工まで一貫して自社工場で製造する商品への熱い想い】
会社名:カネシメ松田水産株式会社
創業1913年。たらこやイクラの醤油漬け、毛ガニ、甘エビなど水産加工品を中心に製造販売。近海の漁獲高が年々減少しているなか、元来から地物にこだわり、前浜沖で漁獲される助宗鱈の卵でたらこと明太子を作り続ける。なめらかな舌ざわりと、生のまま漬け込んだたらこ本来の強い旨味がその特徴。
ー未開の地である「蝦夷地」で商売を始めた当初は、大変な苦労をされたものと思います。当時の創業者様の想いや、苦難を乗り越えてこられた経緯についてお聞かせください。
当社の始まりは明治の昔、曽祖父である松田作四郎が、新潟(旧越後)より北海道(旧蝦夷地)に移り住んだ頃からだと言われています。
蝦夷地は、農作物が育たないことから開拓が進んでおらず、いわゆる「未開の地」と呼ばれていた地方でした。
生まれ育った越後を離れ、蝦夷地で商売人としての生活を夢見た曽祖父ですが、当時の北海道はようやく日本国が開拓へと乗り出した時代。
本州と比べても、活発な商業活動や流通の仕組みなどが、まだなかった頃だと思います。
お金自体も十分に普及しておらず、物々交換が主流だったのではないでしょうか。
初めは小さな船一艘で漁に出て、魚を獲っていたと聞いています。
その頃から、塩漬けや干物などといった、魚を腐らせない工夫を施していました。
長年の苦労があったのだろうと容易に想像ができますが、そんな曽祖父の商売が安定してきたのは、北海道の中でも都市部の方に、行商に出るようになってからだったといいます。
―御社の看板商品であるたらこ、いくらなどの商品は、どのように生まれたのでしょうか?
当社の事業の柱は長い間、塩漬けや干物などの長期保存食でした。
そんな中、先代である私の父が新しい商品として目をつけたのが、着色料を使用しない「たらこ」だったのです。
一般的に「たらこ」は、スケソウダラの卵巣を塩漬けにしたものを指します。
当時販売されていた「たらこ」は赤く着色したものが主流でした。
そこで父は、本当に美味しいものを安心して毎日の食事に取り入れられるよう、「国産地物原料にこだわった、着色しないたらこ」の製造開発に踏み切ったんです。
恐らくこの無着色のたらこは、日本で初めての試みだったのではないでしょうか。
こだわりの地物原料、冷凍を一切しない加工工程など、父の代から受け継いだ理念は今も変わることなく浸透しており、「虎杖浜たらこ」は当社の看板商品となっています。
―御社の強みとして、国産原料へのこだわり、長年の経験から体得した「目利き力」や「まごころ」のこもった生産プロセスがあると感じました。改めて、自社の商品にかける想いについて、詳しくお聞かせください。
想いは一つで、「本当に美味しいものを、一生懸命作る」ということです。
私たち自身が食べて本当に美味しいと思う時期の魚を使用し、味付けや些細な熟成の加減においても、可能な限りの努力を怠らないようにしています。
20名ほどの少数精鋭の現場ですが、同じような商品を取り扱っている同業よりも、手をかけ、愛情を掛けていると自負していますね。
―創業以来、「先代の志」を大切にしながら永続経営を実現してこられたと思います。松田社長が事業を承継されたタイミングと事業承継に至ったきっかけについて、お聞かせください。
事業を承継したのは今から18年ほど前、私が40歳の頃でした。
この時期で交代すると決めて、前もって準備していたというわけではなかったですね。
当時父は60歳を過ぎていたので、「そろそろ世代交代したい」と感じたのが、ちょうどその頃だったのだろうと思います。
私自身、カネシメ松田水産に入社する前は、築地の市場で2年ほど修行し、その後更に2年、アラスカで筋子作りなどの実務を学びました。
25歳から父と共に「たらこ」を作り始めましたが、今思えば父から改まって教えてもらったことといえば、スケソウダラの目利きくらいだったかもしれません。
時代に伴って商流も変化してきていたので、カネシメ松田水産にとっては、事業承継が1つの変革のチャンスだったのだと思います。
―商流の変化において、御社ではどのような変遷があったのでしょうか?
父の代では、生産した商品の99%が築地の市場に出荷されていました。
しかし、平成に入ってからは市場が売れにくい時代へと変わってき、一部不採算も見られるようになってきたのです。
今のBtoC向けの直営販売の形へと移行し始めたのは、この頃からですね。事業承継も、丁度このタイミングでした。
先ほど「市場が売れにくくなってきた」と言いましたが、その理由は漁業の技術の発展にありました。
つまり、輸入物の原料でも、水揚げ後すぐに船上で採卵、急速冷凍をかけることが出来るようになったため、鮮度が担保されるようになったんです。
それを日本に持ち込み、解凍後に加工処理する。新鮮なので、見た目が良いんですよね。そして、外国産なので値段も安い。
昨今のスーパーで売っているたらこも、こういった商品が主流になっています。
―事業を承継されることに不安がある後継者の方は多くいらっしゃいます。松田社長が事業承継を受けるにあたり、課題に感じていたことや苦労されたご経験などがあれば、どう乗り越えたかを含めて、お聞かせください。
実は、会社経営や財務など、父から特別に教わったことはありませんでした。
初めてのことばかりだったので、全て手探りで進めていくことの難しさは感じていましたね。
社長になってしばらくは、経営や財務などの社長業が本当に苦痛でした。
しかし、経験を重ねて、私自身もなんとなく人として成長して、少しずつ苦手意識がなくなっていたのだと思います。
―ホームページやオンラインショップを拝見し、主力商品である「たらこ」のみならず、いくらや鮭、干物など数多くのラインナップがあると理解しました。新商品の開発にまつわるエピソードや大事にされている想いなどがあれば教えてください。
私の代になってから、商品開発には特に力を入れています。
もちろん一番注力している商品は「たらこ」ですが、見た目では何が変わったのか、正直よく分かりませんよね。
例えば、添加物。これは食品衛生上、どうしても使わなければならないので、より美味しく、より健康的に食べられるように、種類や使用量・製法などを年々変化させています。
父はあまり商品開発には興味がなかったようですが、今の直営スタイルになってからお客様の直接の声を拾えるようになったので、精力的に進めているところです。
―今後の水産加工業の未来については、国内消費のさらなる拡大や海外輸出の促進がキーになってくると言われておりますが、御社ではどのような取り組みをしているのか、または今後どんなことをご計画されているのか、今後の展開についてお聞かせください。
グローバル展開については、実は3〜4年前から着手を始めています。
ターゲットはインドネシアを中心とした、近隣のASEAN諸国ですね。
インドネシアにはパートナーの水産加工会社があるので、日本から原料を送り現地で加工できないか、試作を進めているところでした。
インドネシアはイスラム教なので、アルコールの飲食は禁じられています。
ですので、商品原料にお酒由来の原料が入ってしまう、いくらや明太子の輸入は非常に難しいんです。
しかし、加工前の原料として輸出し、インドネシア現地で加工すればなんの問題もなく製造ができます。
コロナウイルスによって一度この計画は頓挫してしまいましたが、近年中にはこのプロジェクトを復活させ、前向きに取り組んでいこうと考えています。
―外部環境の変化が激しい現代において、今後の御社の永続経営実現に向け、松田社長が考えていらっしゃるビジョンや目標があれば、お聞かせください。
海洋資源は年々減り続けていますが、私たちは永続的に資源が存在するように、と出来る限りの取り組みを行っています。
日本の伝統産業を長く続けること、盛り上げていくことが出来るよう、絶えず願っていますね。
―最後に、商品に対するPRや一般消費者へのメッセージがあれば、お聞かせください。
私たちは、漁船が帰港するまだ暗い早朝から魚の下見を始めます。
魚の大きさ、卵の大きさ、熟度、鮮度、そして漁獲した海域。
これらの情報を得て更に、一隻ごとに30尾程度の魚の腹部を絞り、長年の経験から体得した感覚に基づいて魚の価値を見定めます。
買い付けた魚が工場に搬入されると、熟練の職人が魚をさばき始めます。
魚の5割程度は雄なので、もちろん白子も入っています。これらは生のまま国内の主要市場へ空輸するので、出荷においても時間との戦いです。
これと並行し、成熟した卵の厳選・たらこ造りの準備を行います。選別・洗浄を素早く行い、漬け込みをしていきます。
ここからは敢えて時間をかけていきます。
卵の成熟状態をじっくりと判断し、塩分濃度や漬け込み加減を決定します。漁獲場所やその魚の群れによって、日々異なる状態の魚が水揚げされるので、この工程が「たらこ」の味を決める最も重要なポイントです。
一昼夜漬け込んだ「たらこ」はその後更に1週間熟成させ、整形・選別・箱詰め作業を行います。
私たちは全ての工程を深く追求し、自らが納得いく品質になるように作り上げています。
きっと一味違う満足感を感じてもらえると思いますので、是非お試しください。
オンラインショップはこちら:(https://tarakoya.biz/)
【御紹介企業様】
会社名:カネシメ松田水産株式会社
代表者:代表 松田 幸男
本社住所: 〒059-0641 北海道白老郡白老町虎杖浜185−7
ホームページはこちら(https://kojohama.co.jp/)