波打ちぎわの物を探しに
いつもの書店で、三品さんの新刊を見つけた。
わたしはいつも彼の雑貨店の並びの書店で本を見つけて買う。『波打ちぎわの物を探しに』には最近もやもやしていたことが、ゆっくり読みたい文体で綴られていたので2ヶ月半もかけて読んだ。この本はその間、東京と京都を二往復した。
やはりこの二十年余り、ネットの情報社会が世の中に変化を起こしたことによる、さまざまな影響と考察がかなりおもしろい。前著『雑貨の終わり』でそうか、と思ったことがこの本を読んでやはりそうだ、と確信された。
例えば今、「クリエイター」と称する(称された)人たちのこと。デザイナーやアーティスト、イラストレーターやライター、料理家や手芸作家など、どれほど多くのひとがその呼称を自分ごとと感じるだろうか、またはそのことによってなんらかの影響を受けているだろうか。
時をおなじくして。その言葉でよみがえってきたのは前著『雑貨の終わり』で読んだことだった。
ここをわたしはドキドキしながら読んだのだ。All Aboutでまさに二十年ほどその渦中にいたわけだから。確かパンブームなんてないという話を新聞メディアに書いた頃だった。『雑貨の終わり』にはすべての境目が消えつつあることが書かれていた。すべての物が雑貨化し、それはパンもそうで、雑貨店でパンが売られ、わたしは三品さんの店でパンを買ったことがあった。
その話は『月の本棚 under the new moon』に書いた。パン屋さん、Le petitmecの文化発信地としてかつてあったオウンドメディアで書いていた本の話に加筆して一冊にまとめたものだ。パン屋さんだけれどパンを売っていないサイトだった。わたしはパンのことを書かないブレッドジャーナリストとして連載をさせてもらっていた。
結局のところ、消費社会の大きな流れは不可抗力で、どんな人もその流れに漂いながら、自分を見失わないように生きようとしている。職業や名称は移り変わっても、自分は自分でしかないのだから。
デジタルに対して存在するリアルな物がその物である意味が問われたその先に残るのは何か、それを三品さんは「物に宿る古くて弱い力」と書いた。紙切れ一枚にも宿ることのある、お守り的なもの。
デジタルにできないことは、祈りかな、とわたしは思った。祈りをリアルな物に込めたのがお守りだ。
印象的な映画を観終わったあとのように、この本に書かれたことは自分のなかで再生され想像され続けている。