誰がそれを書いているのか(私のこと#1)
書いても書かなくても、いつも主語として「私は」が最初にある。
誰がそれを言っているのか、誰がそれを書いているのかを知ることは、とても大切なことだと思っているので、「社の者が申しておりました」などと言われると「どなたですか?」とうっかり聞いてしまう。「あ、面倒くさい人」と思われてしまうに違いないのに。大きな会社組織では、外に「私」を出すメリットはなく、保身に走るのかもしれない。小さな商いをしていると、名前がわかること、顔が見えることが信用の一つだし、すべての責任は自分にあると常に思っていなければならない。
私は、記名のないメールや投稿はほとんど読まない。だからインターネットの海でも、溺れずにすんでいるのかもしれない。
清水美穂子と申します。チャイニーズキャラクターズは「きれいな水」と、「美しく実った穂」を意味しています。なんだかおいしいパンができそうな名前でしょ?
外国のパン屋さんにはそんな自己紹介をする。名前は大事だから覚えてくれたらうれしいと思う。
インタビューのときには、誰がそれをつくったのか、なぜそれをつくろうと思ったのか、そこにあるストーリーを知りたいと思う。「だって流行っているでしょ?」と言われたら、とたんにつまらなくなってしまう。たとえそうだとしても、あなたの物語を聞かせてほしいと願っている。
子供のとき、「だってみんなが、」と言うと、「みんなって誰ですか?」と母に問いただされた。みんなが持っていて、私は持っていないものをねだったときなどに。一方で、母の常識の枠から外れると「そんな人がどこにいますか!」とたしなめられた。「ここにいます!」とふざけると、怒られた。「そんな人」とは、どんな人だったか。でも、大人になると母は怒らなくなった。「あなた、おもしろいわねぇ」と、それは、私を私として認めてくれていたのだと思う。
ひとを、そのひととして認めれば、常識が多少違ってもそれは「おもしろみ」になるのではないか。わたしの周りにはおもしろいひとがたくさんいる。
西荻窪Good Neighborsの企画で、友達から「誰がこれを書いているのか」「清水美穂子ってどういうひとなのか」「なぜこれを書いているのか」もわかるようにしたらいいと助言いただいたので、少しずつここに書いてみます。
私はこういうひとです。