雑記『エンネアデス』Ⅴ-1 「三つの原理的なものについて(ΠΕΡΙ ΤΩΝ ΤΡΙΩΝ ΑΡΧΙΚΩΝ ΥΠΟΣΤΑΣΕΩΝ)」についての所感

 今期ゼミで扱った『エンネアデス』Ⅴ1「三つの原理的なものについて」は、①キリスト教の三一論との近似性、②豊富な比喩的表現、③魂の知的能力に沿った、プラトニズム特有の認識論という三つの大きなテーマがあり、哲学上深い意義を持った著作というだけではなく、読み物としての文体上の魅力的も備えている。
 一者、知性、魂という三原理が、それぞれ独立した原理として立てられているのではなく、知性、魂はそれぞれ一者から生じ来ったものとしてあり、三つは全てその根元を同じくしている。この構造は、若干の異端を除けばキリスト教の父、子、聖霊関係にも通じるもので、キリスト教がいかにギリシア哲学に負うところが大きいか、この箇所からうかがうことができる。ただし、このアイデアは完全なプロティノスの独創というわけではないだろう。そもそも一者という概念はパルメニデス篇に登場していたし、他のプラトン対話編や、ソクラテス以前の哲学者の文章に、三一論へと発展しうるアイデアが見つかることは十分にあり得る。プラトニズムとキリスト教の近似性で言えば、三一論の他にもティマイオス篇の世界創造神話などが知られているが、当時の地中海世界には、哲学と宗教の両方にまたがる共通の神話があったのかもしれない。
 比喩的表現の豊富さについても、受講者から多く指摘されていた。『エンネアデス』は、プロティノス自身の神秘体験に基づいた書物であり、純粋な思考のみによって書かれたものではない。一者との合一及びそこからの流出は決して合理的に語ることのできるものではないため、比喩的な表現を用いた、アナロジカルな語り方を用いる他ないのである。例えば、一者からなぜそれに続くものが生まれなければならなかったのか、という世界創造上の問題は、一者があまりにも豊かで、妬みを知らないため、と説明される。また、なぜ魂が生まれたのか、という問題も、Ⅴ1冒頭で「あえて生成への一歩を踏み出して、最初の差別を立て、自分を自分だけのものにしようと欲した」と説明される。これらの比喩の仕方は、いわば世界の擬人化である。現代的な学問観に立てば、アナロジーによる説明は論証とは見做されないし、世界を擬人化して解釈することも大いに批判されるところである。これこそが、プロティノスが全ての哲学者に受け入れられない理由だと私は考えている。しかし、我々は本来、既知の概念を通した類比や擬人化を排して、世界を解釈することなどできるだろうか。
 少し本筋から外れるが、後にソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーによって映画化された、ポーランド人SF作家スタニスワフ・レムの『ソラリス』という小説がある。そこでは、知性を持つ海に覆われた惑星ソラリスに人類が降り立ち、海と意志の疎通を試みるも失敗する、という過程が描かれている。ソラリスの海は、人間の思考を読み取り、無意識が抑圧していた記憶を形のあるものとして実体化させる力を持っている。宇宙ステーションの研究員たちは、必死でソラリスの意図を読み解こうとし、メッセージを発信するが、ソラリスの海は黙したまま何も返事をしない。最後に主人公は、ソラリスの海は鏡のようなもので、我々自身の内面を投影していたに過ぎないと気づくのである。ソラリスの海は、他者や世界のメタファである。タルコフスキーは原作の意図を無視し、人間の良心の問題を映画版のテーマにしているが、原作が表現しようとしていたのは、人間は自己の投影としての他者や、擬人化された世界以上のものを知ることができないという問題である。
 これと同様のことを、ヴィトゲンシュタインも『哲学探求』の中で指摘している。「誤解とは……とりわけ我々の言語の様々な領域における、言語形式間の或る種のアナロジーが引き起こすものである(PI §90)。」「我々の言語形式に組み込まれた比喩が偽りの見せかけを生む……(PI §112)」。プラトンのミュトスのような明確な比喩に限らず、われわれが日頃使う言語そのものに、比喩的な傾向が多分に含まれており、時として、あるいは全ての場合、歪んだ世界の像を写しだしてしまう。しかし、われわれはプラトンのミュトスを荒唐無稽な創作として一蹴することはできないし、世界中のいかなる神話も世界についての一定の真理を含んでいる。プロティノスもまた、神秘体験を語る上での言語の限界を十分に認識していながら、あえて比喩的な仕方で語りだしたのだろう。知る(γνωρίζω)という仕方には、色々な仕方があるが、感覚を通して知ることや、直観によって知ることに加えて、他人になり代わって、その経験を追体験することで分かる、という類いのものがあるように私には思われる。例えば映画を観て、自分の経験を参照することで、ある場面の意味が腹落ちしてわかるということがある。プロティノスのテキストもまた、自分が決して経験したことのない合一体験を、あたかもその場面に立ち会っているかのように味わわせ、この世界についての深い認識(γνώσις)をもたらしてくれる。それは論理によって頭で理解する以上に、深い理解の仕方なのではないかと思う。
 また、知るといえば、一者、知性、魂の存在階層に沿った認識の仕方がある。これは初めてプロティノスを読む人にとって、理解しなければ先に進めない重要な知識である。Ⅴ1を読む前に、「善なるもの、一なるもの」を読んで、一者から知性、魂が発出する過程を知っておかなければ、他の論文を読めないのではないか、という懸念があったが、今回受講者たちは問題なくついて来ていたように思う。知性界のものを知るのに、対象と似たものになり変わって知る、というのがあるが、この認識の仕方はクザーヌスなどにも観られる神秘主義特有のもので、なかなか口で説明することが難しい。今後プロティノスのテキストを読み進める中で、「腹落ちして分かる」状態に近づくことができれば幸いである。

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