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信仰の証明
結婚の手続きをした時、思わぬすったもんだを経験した。
日本のように、紙1枚で結婚登録や離婚手続きができる国は少ないという話は聞きかじっていたが、私が今住んでいる国ヨルダンでも、日本のようにはいかなかった。
私も夫も宗教は同じで、普通の役所で登録する前にイスラーム式で婚姻登録をしようと、夫と、夫の兄その1、私と一緒にヨルダンに来てくれた両親と一緒に皆で、シャリーア(イスラームにのっとった法体系)に基づく裁判所へ行った。
私の場合は(ヨルダン人たちから見れば)外国籍であるので、書類は色々と必要だった。
日本から持ってきた婚姻要件具備証明書(+英訳)に加えて、戸籍謄本の英訳も作って日本で公証人のハンコもらったり公印確認や領事認証もらっといてよかった、と安堵しながら手続きを進めていくうちに思わぬ壁にぶつかる。
それは裁判所が「妻側の宗教を証明する公的書類を提出しろ」と要求した時だった。
私の名前は、イスラーム圏にそこそこよくある名前で、パスポートには父親の姓も併記されている。
この父親の姓も、イスラーム圏ではかなりポピュラーな名前だ。
夫側の家族も、私の両親も、「名前がイスラームっぽいから」宗教の証明書を求められるなんて夢にも思わなかったようだった。
こういう場合、寧ろ改宗者の方が手続きは簡単かもしれないと感じた。
改宗者の場合は多くの場合、どこかのモスクで聖職者の立ち会いのもと改宗するので(そうではない場合もあるかもしれないが)何らかの書類を改宗の際にもらっている可能性が高いと私は感じた。
私の場合は、父親がムスリムで、母親は結婚を機に改宗、私はいわゆるボンムス(生まれながらのムスリム:ボーンムスリム)なのだが、日本はいちいち戸籍などに個々人の宗教を登録したりはしないので、これが裏目に出てしまった。
私には信仰を証明する公的書類が無かったのだ。
すると裁判所の担当官は私の父親の宗教の証明書を求めてきた。
父親は口には出さなかったが、大変ショックを受けていた。
父親は生まれてこのかた、一度も自分の宗教を疑われたことがなかった。婚姻というのは当事者同士の問題だから、父親もわざわざ自分の宗教が明記されている本国の書類を用意しようとは思わなかった。
要するに父親も「本当にこの人はムスリムなのか」と疑われたわけである。
そしてその日の夜、私は滞在先のホテルで父親のパスポートを1枚1枚めくっているうちにある記述に目を止めた。
それは「以前の旅券に記された情報」と書かれたページで、何と父親の宗教が表記されていたのだった。
パキスタンでは数年前から、パスポートに宗教を明記するのを廃止したらしく、それで新しいパスポートにはこのページが設けられていたのだった。
私は日本で仕事柄、クライアントから預かったパスポートを血眼になってめくって、やれ上陸許可の日付はどうだとか、渡航履歴がどうだとか、そういうチェックをしていたので、この経験が初めて生きたと感じて妙な感慨を覚えた。
これがきっかけで、私と夫の裁判所での婚姻手続きも進んだが、両親が帰国する日付には間に合いそうになかったので、先に、夫の知り合いの聖職者のところへ行って結婚の祝福のお祈りをしてもらった。
これでイスラーム的には晴れて夫婦となったわけである。
そのあとで役所での婚姻手続きを済ませて、それから裁判所での手続きを完了させた。
私自身は、不安ではあったが、自分の宗教を証明する書類を出せと言われても特に何も感じなかった。
名ばかりのムスリムでかろうじて食事規定は守っていたが、イスラームのことよりも、寧ろキリスト教のほうが私は詳しかった身としては「まあ疑われても仕方ないよな」とすら思っていた。
ところが父親の場合はそうではない。
宗教というのは人種と同等に、個人のアイデンティティを形成する重要な要素である。
それが、異国で、初めて揺らがされたのではないかと私は感じた。
母から聞いたが、父は母に対して「あの渡航は自分の人生の中で最もストレスを感じた旅だった」と言ったらしい。
何も知らない人からしたら、初めての外国へ、しかも観光目的で行ったわけではないからそりゃあ大変だったよなと同情する余地が大いにあるように思えるが、おそらく父親の場合は、信仰を否定されたという感覚を経験したということがあるのだろうかと推測した。
信仰の証明というのは、本来は不可能である。
公的書類が整っていたとしても、整っていなくても、例えばイスラームの場合、1日に5回礼拝しない人もいるし、「ヒジャーブをしていなくてもイスラームを信仰することはできる」と言う女性もいるし、何ならアルコールを普段から飲んでいてもムスリムを自称する人もいる。
こうした人々を、一部の人は「彼らはイスラーム教徒ではない」と断罪するが、そうなると果たして我々に「あの人には信仰があるが、この人には無い」などと断罪する資格があるのか、という話につながってくる。
忘れてはならないのは、我々は神ではないということだ。
我々はともすると、クルアーンや、他の宗教で言えばそれぞれの聖典の記述によって「あの人はこれこれをしていないから信仰者ではない」と断罪する傾向がある。
だが、我々には見えていないその人の事実が、絶対者である神には見えているかもしれない。そして多くの人々はそれに思いを馳せることができない。
人の内心というのは、他人には見えないものである。
夫と車で裁判所の前を通った時に、人の内心、人の信仰についてふと考えた。
法律や政府の決めた画一的なルールでは、人の内心も信仰も、測り得ないのだと感じた。
今日も日没に響き渡るアザーン(礼拝の呼びかけ)が、暮れゆく空に溶けて消えていった。日没の礼拝の時間だ。