デジタル教科書は教育の分岐点

1月19日読売新聞朝刊一面の記事がこちら。

ついに来たな……!という感じ。この記事が伝えていることは

  • デジタル教科書の位置づけを「代替教材」から正式な教科書ということにする

  • 紙かデジタルかは各教委が選択する

ということで踏み込んだといえる内容となっている。
私がこの記事に注目する理由は、文科省はこれまで、デジタル教科書については現場の声を尊重する形で使いたかったら使ってもいいよくらいのスタンスだったのが、ここにきてこの記事なので「どうした急に?」と個人的に戸惑ってしまった。

ただ、戸惑ってばかりもいられない。これはおそらく、今後10年前後で教育現場が私たち大人が知っている教育現場が大きく変わる第一歩になるかもしれないと予想するからだ。ではどう変わるのか?一番大きく変わると予想されるのは、一部教科を除く教員は不要とされてしまうだろうということだ。

次の一手で教員は不要になる

デジタル教科書の定義は記事中にもあるように「紙の教科書と同じ内容をデジタル化したもの」。これだけならこの教科書を使って教える人としての教員が必要となるのだが、デジタルの強みは音声・動画など自由にリンクさせられること。つまり、次の一手とは教科書会社が「先生つき」のデジタル教科書を作り、それを監督官庁が認めること。当然だけどその「先生」は教えるのがめっちゃうまいのだ。何なら容姿端麗、場合によっちゃアニメーション、Vtuberみたいな感じでもいいだろう。既存の人気俳優が教科教育の監修をきっちりとつけて先生を「演じる」というのもあり得るだろう。

教員というのは人気職業の一つではあると思う。だが、ここ最近、採用はしたが辞退者数がとても多かったとか、勤務実態がブラックだとか、やたらと耳にするようになった。教員になりたいという人は、当然だが教員そのものや教育というものをポジティヴにとらえていて、その程度の情報ごときで歩みを止められることはないだろう。もっと言えば、現場は思ったよりも悪くないと思っている人の方が多いだろう。けれども、繰り返し報道されることによって教育現場とは地獄のような職場である、みたいな(誤った)イメージを持つ外野の人間は増えているだろうし、実際に一部地域では中学校の部活動の地域以降で教員の負担を減らすという取り組みがなされるなど、それを追認する動きが見えている。この次に来るのは何か?デジタル教科書とは別に、教員そのものがいなくても教育現場が回るシステムづくりなんじゃないのかなということである。

学校とは何か、という原則

そもそも学校における一斉授業のメリットとはその効率である。大勢の生徒を前に講義して、定期的に理解度を測る試験をするのは、デメリットもあるがいっぺんに多数の生徒に共通の知識を身につけさせる効果が得られる。子供が多かった時代はその母数の多さゆえについてこられない子供の数もそれなりに目立った(だからマスコミはこれを教育問題として取り上げたのだ)が、今思えばこれは本当にデメリットだったのか?そして何より、インターネットなどという明治の学制制定のの時代では考えもつかない技術がある時代に、なんで明治時代のやり方を続けなければならないのか?

でも、学校というのは子供たちの社会性を育み云々、という側面はある。でも、それは学校というものがまずは公民として子供たちを育む機関であることに優先はしない。並列くらいはするだろうが最優先ではない。あくまで公民=社会人たる知識を身につけさせるために存在するのだ。そしてそれが可能だろうというのはこのコロナ禍で私たちは薄々感づいてきたはずなのだ。少なくとも座学でできる勉強は、ICTのフル活用で意外と何とかなるもんだ、と。だから、その観点からすれば、実技教科はこの次の一手を打ったデジタル教科書の登場以降も教員を必要とすることになるだろう。体育、芸術(音楽・美術・書道、その他、地域芸能とかも入れるべきなんじゃないかとは個人的に思う)、技術・家庭……。運が良ければ理科・科学は実験があるからということでこの教科だけ残るかもしれない。いやいや、アクティヴ・ラーニングを教育現場に導入している以上、やっぱりすべての教科は残さなきゃいけないんじゃないかって?自分で食っていくような年齢になったら毎日がアクティヴ・ラーニング漬けなんだから、子供のうちからやる意味ってのはあんまりない。そんなわけでデジタル教科書が次の一手を打ったら実技教科(+理科・科学)以外の教員はお役御免となる未来が待っている。

高学歴者のルサンチマン

今はまだデジタル教科書が正式な教科書になるよ~くらいのものだが、先に述べたように「教える人つき」の教科書が登場し、そのうえで「学校の先生不要論」がマスコミによって流される主たる論調になったら、当事者の人達は真剣に警戒した方がよい。当然ながら、教員の不祥事や、教員に支払われる給与がどれだけ財政にダメージを与えているか(そんな事実はいうほどないんだろうけど)といった件が抱き合わせで拡散されるだろう。ダメ押しで、首都圏と地方政令都市の一部で「新しい学校の形」と銘打って、上記で述べたような学校――例えば、主要4ないし5教科は配布されたタブレットPCやおうちのパソコンを使って「自主学習」し、その習熟度はAIで作成したテストを児童・生徒はいつでも受験でき、実技教科の授業だけ受けに週2、3回だけ学校に通う、といったもの――を実験的に導入して、もちろんこれは「成功例」になるはずなので、それを受けて全国的にこの形をとることになる。特別支援教育や過疎地などを例外として、今、大人である人間からすれば「私たちの知らない学校の形」が子供たちの前に広がることだろう。

難関大学を出た人たちの少なくない数の人達は、学校での教育にそれなりにイラついてきたんじゃないかなという気がする。最難関私立中・高以外の高校を出たような人なら、どういう人間が教育大学に入ったかを目の当たりにして、そのイラつきの原因を正確に把握できていると思うんだよね。また、飛び級がない理不尽さにもイラついている人は多いと思う。身長なんかの、体の成長とかはさ、毎年決まった数量だけ成長するなんて律義なことはしなくて、ある年は数センチ、ある年は数十センチなんて感じでバラバラの不揃いな成長の仕方をする。頭脳の成長もそんな感じだろうから、それを学年で区切って今年はここまでしか勉強できませんってやるのは、よく考えたらひどい話なんだよ。
そして、文部科学省のみならずこの辺の学校の形を変え得る立場にいる人たちは最難関の学校に通っていた人たちも含めて学校そのものに対する恨みつらみは多かれ少なかれ抱えているんじゃないかな?それでなくても、自分に施される教育が「通う学校」ガチャ、「教わる教員」ガチャ状態なんだから、冷静に考えたらこれほど怖いことはない。
私個人はその点ではかなり恵まれていたから、この辺の視点が生まれたのは大学を出てからである。これはシステムに関してなんだけど、高校入試のシステムが都道府県によって全然異なるとか、普通に知らなかった。学習塾のアルバイトを通じて公立高校の一般入試の問題を見て「難しすぎる!」って驚愕したもん、自分の出身県が基礎力重視の易しめの問題だったからね。「私はこの県の出身だったら今通っている大学には入れてないや」って真剣に考えたくらいだ。ということで「出身地」ガチャもあるわな。要は、日本の教育は、教科書とかそういうのはちゃんと揃えられているけど、肝心の現場が「ガチャだらけ」で、受けられる教育の良し悪しが運に委ねられているということ。自分がそういうガチャで外れを引かなかった運のいいサバイバーだと自覚できれば、帰られる立場にあるなら変えたいと思う人も出てくるんじゃないかな。

妄想か、はたまた現実のものとなるか

現時点ではこの文章は妄想全開の内容といえるんだけど、戦後すぐから50年ほど、某全国紙の教育関係の記事を全部拾うってのを学生の時にやったことがあって、その経験から分かっているのは「教育は世論に流されやすい」ってことなんよ。そしてスパンは数年から10年ほどで世論は形成される。例えば、高校進学率の急上昇に伴う「受験戦争」なんてのは割と好例で、東京都なんかは旧制中学から培ってきた学校文化を全部ぶっ潰してまで学校群制度なんて導入したじゃない。あるいは首都圏の某県における業者テストに絡む入試不正に絡んでときの文部大臣が偏差値廃止を唱えたのもこの延長線上。さらに、ゆとり教育は10年どころじゃない、数十年かけて完成させた(そしてすぐにポシャった)。あれって、ゆとり世代だけのものじゃなくて、それこそ就職氷河期世代の、それも大学受験で一番割を食っていた世代の人達もカリキュラムは受験戦争とか煽られていた時期のそれと比べてだいぶ削減された代物だった(ただし削減途中)んだから、まあまあ「ゆと」ってんだよね。で、アメリカあたりの大学入試をモデルとしていろいろ入試改革を進めているわけなんだけど、いわゆる「推薦入試」として知覚しているあの入試形態は、このままいけば学校型選抜にしても自己推薦型の総合型選抜にしても、それらを足し合わせた合格者の比率は向こう10年でかなり高まる(たぶん9割くらい行くんじゃないかな)はず。「学校の勉強は今一つだったけど、本番の入試で見事合格を決めたんだぜ」的な話は近い将来都市伝説になるだろう。その源流は「受験戦争」を悪と見なしたところから始まっていて、しかも半世紀近く続いているし、「受験戦争」を悪とする考え方ってのは、結局のところ「勉強することを悪いことだと認識させる」弊害があるにもかかわらずそれは見なかったことにしているんだからよくない。
で、今マスコミがうきうきと流しているのは学校現場の労働環境が悪いとかそういう話なわけでしょ。もちろん教員の不祥事は定期的に流れてくるし。その次に来るのは「学校の教員不要論」だって私が先ほど延べのは、「受験戦争」関連の報道の変遷を見ていると、ここまで述べたことも強ち妄想だって切り捨てらんねえよなということなのだ。確実に順を追っている。だから、もし今度教員の給与に関して「払い過ぎだ」みたいな論調が出てくるようなら(幸い今のところは残業代をちゃんと払おうぜ、的な感じなのでまだ大丈夫だと思うが)教員の数がごっそりと減るカウントダウンが始まると思ってよい。もちろん、妄想に終わればいいと思う。

まとめ

そんなわけで話があっち行ったりこっち行ったりしたが、まとめると以下の通り。

  • 教科書会社が「先生つき」のデジタル教科書を作り、それを監督官庁が認めれば、教員大幅削減(現職ももちろん含まれる)の始まり、そしてそれは学校制度そのものの大規模な改編の始まりでもある

  • その根源にはそうした政策決定に加われる人たちのルサンチマンによって左右されるかも

  • ただし実技教科は、その性格から教員含めて生き残るだろうし、学校というのがその実技教科を週に数回だけ受けに行く子供向けのカルチャーセンターみたいな場所になる

ひどい妄想そのものなんだけど、もしこうなれば、学習効果の効率を考えて教育の最終目標を大学入試として設計したカリキュラム編成がなされるだろうし、もちろん大学に進学する人たちだけじゃないから、戦後の教育改革で否定された複線型の教育が復活して実業系の学校が復権、もちろんそれ専用のカリキュラムが用意されるだろう。いわゆる「お受験」も廃れはしないと思う(特に中学受験は)。いずれにしても、教育はこの時点で文科省の管轄を離れて、大学は経産省、実業系学校は経産省と一部厚労省の管轄になり、文科省は廃止、文化庁・スポーツ庁が省に昇格して義務教育段階の芸術・体育系の学科のカリキュラム策定に関与する。また、「こども家庭庁」となっているところが省に昇格して何となく教育の管轄ということになると思う。もちろん、学校における教育には触れず、家庭教育について何となく発信する省になるのだろう。

「伝統固守」を旗印に旧制中学など伝統校に由来する今の高校は公立私立問わず存続するだろう。私立と一部の国公立は中学から彼らを受け入れるだろうし、それらの学校は戦前における旧制高校の役目を担うことになるはず。そしてたぶん、それら以外の学校は普通科の高校とかよほど個性があるところじゃないと「緩やかに」解体されるんじゃないかな。
というのは、高校入試からしてすでに不平等なんだから、この妄想通りになるなら高校入試にもメスを入れるはずだからだ。この場合メスを入れるとはどういうことか?手っ取り早いのは「失くしてしまう」ことなんだよね。もちろん、数十年は続くだろうけどいずれなくなる。
義務教育が15歳で終わるのであれば、そこから成人年齢18歳までの3年間は社会人になるためのモラトリアム期間となる、といった常識が醸成されると思う。もちろん、勉強ができる人は「名門校」に進学するだろうし、早く社会に出たければ実業系の学校を志向するだろう。それ以外はどうするのか?たぶん高卒認定試験(かつての大検)もなくなると思うから、大学入試に直行するために予備校に通う――んだろうけど、デジタル教科書って当然だけど現行の高等学校の教科書も対象なんだよね、ってか大学入試を念頭にした参考書に取って代わるだけだからここで論じる意味は大してない。現時点でもそうなりつつあるけど、動画による講義とセットになった参考書やら問題集やらが彼らの事実上の教科書になって中卒→予備校→大学というのが主流になる未来もあるかもしれない。いや、飛び級OKにするなら中卒→大学がゴロゴロ出てくるのかもしれない。

学校の教員に対して個人的な恨みなんて全くないのだが、あり得る未来としてここに示しておく。もしこのようなことになったら、明治の秩禄処分よろしく退職金をそれなりにもらえるとは思うが、明治のときと違って何か起こるのかね?少なくとも50年前なら米騒動みたいに騒擾事件が起きたかもしれないが、令和の今はどうだろう?そう考えると、この妄想には実現してほしい気もするし、してほしくない気もする。
あと芸能プロダクションはこの事態に備えて「授業専用タレント/アイドル」を育成し始めるべきである。


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