実体のない世界をどう生きるか
ソフトウエアのように実体はないが、情報処理はする自分。情報処理といっても、その刹那、刹那で入力も出力も変化するし、処理するプログラムがミリ秒単位で変化する自分。そんな捉えどころのないのが自分、自我である。
またモノに関しても、見方によって実体はあるともないとも言える。
例えば車のハンドルやブレーキは単体では「車」の機能、すなわち、ハンドルであったら「車の操縦桿」であったりブレーキなら「車を停止させるもの」ではない。
ハンドルなら、ただの円形の鉄に皮をまいたものにすぎない。ブレーキは踏んでも壊れない硬い板である。
ところが車の部品を組み合わせた途端に、新しい意味が生まれる。
ハンドルの実体とはなんだろうか? 状況(縁起)によって変化するのである。
お釈迦さまは諸法無我と言った。
でも人間自身はそう思ってない。変わらない自分はもちろんあるし、自分の信条や自分の立てた目標に向かって生きることが生きがいであり、自分だけでなく自分の周りを幸せにすることが自分の生きがいであると考えるであろう。好きなモノを買い、それが提供してくれる価値を享受することに幸せを感じ、物欲をもつ。物を買うために経済力をつけることを目標にする。
それももちろん間違っていない。自分にしかない、固定のプログラムがあってそれを繰り返し使ったり、モノが提供する価値を追求する。それでなにか幸せを得る。それは必要なことだ。
しかし固定なプログラムやモノは、いつまでも使えない。固定なものがあると思った瞬間にそれは執着になる。それが使えないと苦になるのである。モノもいつかは壊れたり、使えなくなったりする。
お釈迦さまは一切皆苦と言った。
あると考えて、幸せを求めることが苦に繋がるのである。それは全てのものは刹那に変化し、実体はあるともないとも言えないからだ。
お釈迦さまは諸行無常と言った。
自分を取り巻く環境が、こうであるとして、では、どうやったらうまく生きることができるであろうか?