相即する

相即、略して「即」という言葉が好きだ。

相即するというのはお互いになくてはならない関係を築いているというだけでなく、それがひとつに見なせる。

ナイフを例にする。ナイフは、モノを切ることができる刃の部分と柄から成っている。刃と柄は相即する関係にある。

刃はものを切ることができるが、切れない安全な柄がないと、力を入れることができない。

柄は、刃がない限り、安全に切るというその効力を発揮できない。

だから刃と柄はお互いになくてはならない関係にある。それが接合された時に初めて、ナイフという概念が生まれ、柄でもなく刃でもない、ナイフというひとつができる。それはもはや刃と柄のWin-win関係ではなく、分けられないひとつのナイフになる。

刃即ナイフ、柄即ナイフ (色即是空)
ナイフ即刃、ナイフ即柄 (空即是色)なのである。
だから柄即刃 となる。

お互いにない性質を助け合うことで相即する。
ナイフは物を切れるともいれるし、切れない(刃を持って、柄で切ろうとしたら)とも言える。手を切れるともいえるし(刃を持って、柄で切ろうとしたら)、手は切れないともいえる。

このアナロジーを自分と自分の体に適用してみる。
自分を外から客観視すれば、ソフトウエアみたいなものだと言った。
自分はソフトウエア、体は、ハードウエア、脳のようなCPUやメモリ、入出力装置である感覚器官から成っているとすれば、そのようなソフトウエアとハードウエアは、お互いに相即しているのがわかる。
自分というソフトウエアは、身体というハードウエアがないと機能しないし、身体というハードウエアは頭のソフトウエアが稼働しないと、生命の維持ができない。では、ナイフのようにソフトウエアとハードウエアをひとつにしたものはなんだろうか?それを「私」とする。でもその「私」を、ソフトウエアの自分の中からは正確に見ることはできない。
でもソフトウエアの自分は、他人を見ることで、私が他人からどう見えるかは推測できる。また、自分から私を見ることで、そのアナロジーとして他人を理解できるので、次に他人の理解を、私に応用することで、私を近似的に理解することができるであろう。

だから 自分即私であり身体即私になる、そして自分即身体なのである。
同じ理屈を私と妻にも適用できる。
私と妻を一元化すれば、私即夫婦であり夫婦即私となる。また妻即夫婦であり夫婦即妻であれば、私即妻と言える。
そして自分即家族となり、自分即共同体であり、自分即人類、自分即生物、自分即地球なのだ。

このように自他合一の考えを広げることができれば、より絶対的な見方からものを見ることができる。そこには愛が糊となって自他を結びつける。

完全なる絶対視をしようとも、世界の中からしか見ることが出来ないのだから、これで十分なのだ。

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