小我の暴走

小我(自我)の世界で生きている自分は、それが全てと思ってしまいがちである。

でも、私たちは自分の体さえも一部しかコントロールできていない。心臓は自我の世界の外で勝手に鼓動を繰り返すし、胃腸は自動的に食物を消化する。体という組織は、人間の自我とは別の次元で営みを展開している。

また自分の判断は、自分だけによる判断はほとんどない。ほぼ外の世界に影響され、あるいは外の世界の作法に則って行われる。

人間は他人抜き、または人間が作り出したモノたち抜きには生きていけない。すべては縁起の中で起きていることであるから、自分が作用しているのはほんの僅かであり、生きているというよりあらゆるもの、人間、生物に生かされている。

しかし、小我中心の考え方では、生かされているという発想は起きてこない。

大我の発想があれば、生きているというより生かされている感じになる。

人間は大我のコントロールから逃れるために、自我を発達させたと言ったがそれはその通りだと思う。

しかし、小我と大我のベクトルの違いが人間の苦しみの元にもなっている。

出来るだけ大我に近い形の生き方ができれば、ベクトルはあってくるのではないか?

それは太古の昔のまだ動物に近かった人間の生き方とも言える。

そのような生き方に現代人は学ぶところが大きいのではないか?

原始人で書いたように人間は自由や平等の追求をするあまりに、人間の作り出したモノと人間の間にたくさんの小我や大我を規制する規則(縁起)を複雑に作ってしまった。個人の小我はそれに雁字搦めになって、逆に暮らしにくい世の中を作っていないか?

小我は仮想であり、仮のものである、諸法無我であると考えられずに、その時々を一生懸命生きる単純な生き方が出来なくなっていないか?

仮想でソフトウエアのような小我が生み出す無限の欲(煩悩、無限ループ)に踊らされて、自我のエネルギーレベルを最大にする余りに、全く異なる方向を向いている大我とのベクトル差を大きくして、苦しんでいないか?


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