持続する統一力
主客未分の状態では、物事を一つにまとめようとする統一力が働く。
それは、行く川の流れが一定方向に流れるように、自我(小我)のほかに、大我があり、大我の必然に従って、物事は統一感をもって成されるからである。地球が自転し、公転し、季節が巡り、天変地異が起きるのもそうであるし、それに従って、生物が生存競争で生き残るために、生命の営みを生死を含めて繰り返すこともそうである。もっとミクロなレベルになれば、目にゴミが入って、目をぱちくりさせて涙を出してゴミを取り除く、一連の動作は、統一感をもって自然に行われる。これも、主客未分である故の、統一力が働くわけである。主客未分であれば、自我は働かないので、万物の法則やDNAに刻まれた行動規範、臓器や細胞のレベルで取り行われる体内の維持活動によって、その統一力が培われていると思う。
そこから、主と客に分離される時に、自我が働き、意識レベルの判断が行われる。それによって、意思と知識が生まれるわけだが、その時に、主客未分の統一力は削がれて、個々の人間によって、異なる判断、意思と知識が生まれる。
しかしながらその統一力は全て失われるわけではない。人間には意識レベルでも、自他を一緒に考える、すなわち自分自身の理解モデルと他人やモノの理解モデルを脳内に持つことで、その共通点を見出すことができる。そのような自他合一、主客合一の理解モデルを持つことで、統一力を持って、共感できる。そこから新たな、純粋経験を生み出せれば、統一力は持続し、深化し、自我と大我をより一致させることで、より自由に、人生をコントロールできると思う。
縁起や執着がもたらす苦は、個々の経験を分裂させようとする力になり、それにより主客は分離させる方向に繋がる。しかしそれを上回る統一力で苦を克服し、主客を一致させる力を持つことができるということである。そのようなより強い統一力を持つためには、より大きな単位の自他合一を果たさなければならない。
例えば、音楽の世界を極めようとする純粋経験の方向性(統一力)があったとする。しかしながらそれではお金にならず経済的に苦しいとする。一方で家族に経済的な充実を提供することによって、家族の幸せを追求する純粋経験の方向性があったとする。そのためには音楽家になるより、稼げる仕事に就くべきであったとする。この二つの純粋経験は反発する要素がある。それを統一させる力が働くということはどういうことだろうか?個人ではなくより大きな単位の自他合一を考えるなら、家族という単位になる。たとえば、家族を優先し、仕事は稼げる仕事をしながら、プライベートで音楽を続けるというのも一つの統一の方向性であろう。音楽の仕事に就くことをベースに、お金の問題を解決する方法もあるだろう。このように家族なら、自他合一は考えやすいが、次の単位は、自分の友人や所属するコミュニティ、そして国とか、民族、そして人類、生物、地球、宇宙、そして最後に神となると、簡単に着地点はないかもしれない。ただそれを果たして、それらと自他合一した中の純粋経験を積み重ねれば、より強い統一力を持てるということである。それにより苦や悪を受け入れながら、快や善もそこそこ追求する。純粋経験というのは一瞬ではなく、人生をかけて追求するジャーニー的な要素を非常に感じる。
主客未分で自他合一の世界で全てを説明しようとする考え自身、個人主義がベースの西洋哲学では受け入れがたいのかもしれない。西洋的には自他をはっきり分け、課題を分離する(アドラー心理学)。一方日本人にはなじみやすい。仏教にある無分別の考えが染み付いているからである。主観ー客観に分かれることは、自分ー他人、自分ーモノ、精神ー身体、意志ー思惟、感性ー理性が分かれることであり、主客未分の純粋経験とはそれが分かれていないというより一つになった状態で積み重ねられることだろう。