無我を紐解く
自分の主観、自分の心から見て、自分の体は自分の外にある客観であると考えるべきだ。もちろん自分と自分の体は欠くことのできない関係にある。
そうすると、自分はなにか? それはハードウエアを制御するソフトウエアのようなものという理解をした。
ソフトウエアであるから、あるようでない。無自性な無我であるというのがお釈迦さまの結論になる。
自分があるようでないことは、中々理解し難いものである。われ思う、故にわれありと思うのであれば、我は存在し続けている。
お釈迦さまが考えたのは五蘊仮和合という考えだ。無我というのは、
五蘊(ごうん)でありそれが仮和合している(仮に結び付いている)と説いた。
五蘊とは、
色…肉体
受…感受作用
想…表象作用
行…意思作用
識…認識作用
を表す。それらが、その時一瞬一瞬に、仮に(一時的に)和合して生まれては消えている。それが仮の自分を作っている。ただ人間は大雑把で、五蘊の細かい変化を無視する傾向があり、変わらない我(自分)が存在すると錯覚する。要は細かい差は無視するという条件の下では、我が存在するということになる。
でも、小さな頃の記憶は、どんどんなくなるし、ちょっと前だって忘れてしまうではないか?
忘れるということは、自我が同じではないことを意味しているし、昔の覚えいていることも、その時感じた感覚と今思い出した感覚はきっと同じではない。結局、思い出した今を感じているだけで、その当時の感覚は当然、五感も変わり、その時と今で環境も変わっているから、同じではないのである。人間はバケツリレーみたいに自己の中で記憶を渡り伝えて、自我というものを維持しているだけで、バケツリレーで溢れていく水もある。そこに水を継ぎ足して渡してゆくわけで、最初のバケツの水は、最後のバケツの水がほぼ入れ替わっているのに等しいのではないか?それなのに、全く同じ自我が存在し続けるよう、錯覚する。
一つ前のバケツから水を汲み、次のバケツに渡す、それが人間の本質であり、その中の水は一定ではない。
前のバケツの水はインプットである。それを認識し、考え、行動することでアウトプットとなる次のバケツの水を注ぐのである。そのインプットをアウトプットに変換する処理も、一定ではない。人間はそんなに機械のようには動かない。同じインプットでも、気分の違いにより違う行動になるかもしれないし、結果アウトプットも変わってくる。そんな時と場合によって処理も違えば、アウトプットが劣化してインプットになってしまうようないい加減な処理体系を、自我というものでまとめることは、本来間違っているのではないか?というのがお釈迦様がいっていることだと思う。
その時々のインプットから、考えられる最良の処理を行い、アウトプットはその時々で変わってもよしとする。処理系は、インプット・処理・アウトプットの1サイクルだけであり、バケツリレー全体を処理系とは考えない。1サイクル終わった時点で状況を確認し、次のサイクルのアクションをその都度決める。
そんな考えが、諸法無我の生き方だと思う。