ソフトウエアな自分
縁起に包まれた自分をさらに客観視すると、自分も客観になる。自分の体も感覚器官も全て、自分ではないと考えることはできる。
そうすると、自分は、そのような器官から神経細胞を通じて情報を集めて、そこで、コンピュータのようにI/O(Input/Output)の処理をする処理機関ということができるであろう。ついでにその時に記憶というメモリーを持つことで、状態を保管したり、見聞きした情報や処理した結果を保管し、取り出せることができる。
その場合自我とはなんだろう。CPUのように物理的な脳やシナップスともいえない。自分でシナップスが繋がるのを制御しているわけではない。
どちらかといえば、ソフトウエア、情報処理はするが、それは仮想的なもので、実行環境(オペレーティングシステム)のように、入出力や指示(コマンド)に応じて、記憶を使いながら実行している自律システムということができるであろう。
その閉じた自律システムは、赤ん坊で自我が芽生えるころに徐々に確立され、そして死ぬ瞬間までそのシステムから抜け出すことは出来ない。ただし寝たりすると、一旦それがスリープ状態になって、それがまた起きると復活する。
自分は、ソフトウエアで実体がないと思えば、無我であるというのも納得がいくのではないか? 一方「我思う、故に我あり」であるから、情報処理はしている。従って全く何もないわけではない。だから確かにある訳でもなく、全くないわけでもないのである。
情報処理のしたかも、年を重ねれば変わってくる。なにひとつ同じはない。その刹那、刹那で処理の方法も変わってくるのが、通常のソフトウエアとは異なるところである。処理ロジックが固定でないとしたら、一層実体はあるようでないことになる。