鏡の自分を客観視する
鏡を見るのが好きな人、嫌いな人、いると思う。私はあまり好きではなく、床屋にいって自分の姿を鏡でみて、こんなに歳をとったのかと思うくらいである。
自分の容姿は、整形手術でもしない限り変えることはできないが、たとえ整形手術をしても、「自分」は変わってしまうだろうか?変わらないだろうか?
容姿が変われば、その影響を受けて、変わることはできるかもしれないが、整形手術をしてまで綺麗になりたいと思う自分は、きっと変わらないであろう。
そう思った時に、自分自身だと思っているもの、例えば自分の容姿であったり、自分が五感で感じることであったりは、自分自身自身(自我)の外にあり、それが鏡のように自分自身に映し出されている、人間はそれを捉えて、認識し、それに基づいて行動しているといえる。
たとえば、視覚であったら、網膜に映し出されているものを見ているだけである。だからバーチャルリアリティやオーグメンテッドリアリティが成り立つ。実際に海外でその場所に行かなくても、VRゴーグルをつけることで、そこにいるような視覚的な感覚を得ることができる。
そう考えれば、自分のものであると考える、自分の五感、それを感じる目鼻耳口は、全て自分のものでない、自我の外にあるとも言えるのである。
同じ論理で自分の筋肉、皮膚、五臓六腑、脳でさえも、自分ではないといえる。自分はそのような物理的な細胞の塊の上に、できた仮想的に情報をやりとり判断する頭脳といえると思う。
自分自身と思っているものも、それは実体はなく仮想的なもので、自分の体や感覚は自分の外にあると考えることができるのである。
仏教の唯識では、そのような我見(自分を可愛いと思う心)、身見(自分の身体が可愛いと思う心)をなくすことが、苦を諦める基本として考えられている。
要は、自分に対しても「課題の分離」が可能になる。他に関しては「課題の分離」は自分でないから、難しくても可能であることを書いた。例えば、身内の死も、上手く課題の分離ができれば克服できるとした。
自分自身に課題がある苦、たとえば病気にかかった時、今までできたことができなくなった時、自分自身に起きていることと考えずに、自分の周りで起きている事象と捉えて、ある程度の「課題の分離」ができれば、その病苦を克服はできなくとも、緩和することができるであろう。
自分自身に対しても、課題の分離は大事なのである。
それを極めて、我見、身見をなくすことができた時に、後に残るものはなんだろうか?
それが無我であるということなのであるが、それは「何もない」ということではなく、そこには奥深い世界が広がっている。