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ポル・ポトと自分

カンボジアの首都、プノンペンにいる。
今日はトゥールスレン虐殺博物館に行く。
ポル・ポト政権下の拷問、殺害の記録を残す場だ。
犠牲者全体では170万人に及ぶとも言われる。

正直、足取りは重い。


中に入るとすぐに14の墓が目に入る。墓はそれだけ。2年9ヶ月で20000人が収容され、生き残ったのは8人。


残りの19978人は?


そんな疑問を胸に音声ガイドをオンにする。
音声ガイドの言われるがままに展示に入る。
それは展示というより、もはや虐殺施設の跡地だった。


最初に入った建物から、実際に使われた拷問室、拘束具、血痕までもが残っている。


当時のカンボジアに戻ったような感覚に陥る。

しかし、よく考えると40年ちょっと前の話。

歴史上の出来事と捉えていたものが、目の前から差し迫ってくる。


その後も“跡地”を見て回ったのだけれど、写真は禁止されているところがほとんどだし、撮る気にもならなかった。言葉で綴るのも憚られるし、その語彙もない。


ただ言えるのは、一人の男が彼なりの理想(自力厚生の原始共産主義革命)を達成するために170万人が犠牲になったということ。


最後の“跡地”で種明かしがあった。
無数の人骨、髑髏が無機質に陳列されている。


19978人の結末だろう。


トゥールスレンを後にした。

本来はここからプノンペンを散策するつもりだったが、その気力は残っておらず、ホテルに帰る。


プノンペンの街が、これまでとは違って見える。


よくよく考えてみると、50歳以上の人は一度も見ていない気がする。

先にも言ったが、ポル・ポト政権の惨事は約40年前のことである。

発展途上国特有の平均年齢の若さもあるのだろうが。


余談だが、カンボジアではUSドルとカンボジアリエルの両方が出回っており、リエルで払うとリエルでお釣りが帰ってきて、ドルで払ってもリエルでお釣りが帰ってくる。

彼らはドルのほうを好むようだが、リエルの弱さと、彼らがドル経済圏に深く依存しているのがわかる。


「ボロボロのドルでも交換する」と書いてある。
ちなみにリエルは変に折り曲がってるだけで、交換してくれなかった。


原始共産主義を目指したポル・ポト政権を経て衰弱しきったカンボジアが、今となっては世界一の資本主義国、アメリカ合衆国の通貨に頼らざるを得ないというアイロニカルな矛盾が垣間見える。


ポル・ポトにも理想社会があった。

誰もが平等な原始農耕社会だ。

その理想を実現するために、多くの知識人や、その運動に逆らおうとした人々、そしてその“疑い”をかけられた人々が無慈悲にも犠牲になったわけだが、さらに悲惨なのは、その多大極まりない犠牲を以てしても彼の理想は実現しなかったことではなかろうか。


プノンペンの街には高層ビルが立ち並び、高級車も珍しくない。

一方、深夜に街を歩くと、下着1枚で山積みのゴミを分別し、輸送する少年を目にする(写真を撮る気にはなれません)。

僕はそれを見ても、目を逸らして足を速めてしまった。

彼らはそういう運命なのだろう、と言い聞かせて。


こんなことを言う資格はないのだが、僕は、全ての人々のスタート地点は完全平等であるべきだと思っている。

誤解を恐れずに言えば、彼の描く理想社会を真っ向から否定するわけではないのだ。


以降、浅慮にはなるが、私達が生きるのは不可抗力の不可逆的世界であり、もはや、文明以前のような平等社会に戻ることはできないのではないか、というニヒリズムが浮かんでくる。


その不可逆に抗おうとした結末が、あの惨事だったのではないか、と。


僕やあなたにはこの世界の平等実現のためにできることはない?

言葉にできない感情が湧き上がってくる。

「ポル・ポトと自分」、非常にスリリングな記事のタイトルだ。
しかし、あの悲惨な歴史を“歴史”として現在から断絶するのではなく、カンボジアの地を踏んだ限りは、“歴史の当事者”として捉えるべきだろう。





いま、プノンペンからベトナムのホーチミンに向かうバスに揺られながら、この文章を書いている。

アンコール・ワットのあるシェムリアップに続いて、カンボジアで感じたことを書き綴ったが、すでにカンボジアを恋しく感じている。

カンボジアの人たちは本当に優しく、どこに行っても笑顔で無償の親切を注いでくれる。二度と会うことのない異国人である僕に。


喜怒哀楽の全て、そしてそれ以上の感情を痛烈に感じられる国、カンボジア。

ここで感じたこと、その全てを忘れずに抱えて、ベトナムへ出国します。


カンボジア、本当に来てよかった。


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